島日和<ひょうたん島後記>

          2-2022   池田良


息をするたびに喉が、がさがさと音を立てて痛い。
うっかり微笑むと、唇のはじがピリッと切れて、あわてて指で押さえている。
まぶたのふちもギトギトして、ギシギシした眼球からはうっすらした涙が、ねっとり流れている。

カラカラに乾ききった空気の中に、ピシピシとかすかな音が響いていて、さらに乾燥を促す風が少しづつ強さをましている。
雨も降らない冬の日々がもう何週間も続いて、こんな時に火事が起きたら大変だろうなと思いながら、僕は風の強さを計っている。
葉書ほどの大きさの小さなまるい凧に、細長い紙ひもをたくさんつけて、まるで海の中のクラゲのように空中を泳がせ、それをいくつも、崖の上の大きな欅の枝に結び、風の粘度を調べる。
風は、入日に染まった空と絡み合うように粘度を上げ、ぐるぐると風向きを回転させながら、強さを増している。
今夜も大風になりそうだな。そう思いながら僕は欅の枝に、強風注意の赤い三角布の旗を結び付けた。

結局風は一晩中、裏の森の木々の中で大暴れをしていて、やっと残った葉や小枝を叩き落そうと夢中になっているようだった。
真夜中に、窓のカーテンを開けて外を覗くと、空の真ん中に弓のように細い月が、大きく冴え冴えとひとり輝いていて、「寒いねえ」と僕が声をかけると、あわてて西の空へ沈んでいった。

朝は、昨夜の残りのスープをストーブの上で温めて、フルーツサンドと一緒に食べる。
僕はこの頃フルーツサンドが好きでよく作る。
生クリームとフルーツもいいけれど、普段にはパンにマーガリンを薄く塗って、家にある果物を挟む。バターだと少し動物くさい感じがして合わないような気がする。特に林檎のような、繊細で複雑な香りのものには。

風は朝になってもおさまらない。
いったいどうしたいというのだろう。僕が崖の上の欅の木に結び付けた、たくさんの凧は、もうみんな吹き飛ばされてしまっただろうか。
強い風は、外に出てみるのもおっくうになるほどに吹き荒れているが、ストーブの薪が残り少なくなっているので、僕は裏の薪小屋まで取りに出た。
海には、白ウサギのような波が、ぴょんぴょんと無数に飛び跳ねているのが見える。

風は増々粘度を上げ、僕の体中を撫で上げ、髪の毛の一本一本にまで絡みついてくるけれど、以外に暖かい。明らかに少し気温が上がっている。
まさか、南風? そう思った時に突然、目の前に大きな鳥が立っていて、僕を見ると、威嚇するように羽根を大きく広げた。
クジャクだ。

僕たちは、突然のことに息をのんで見つめ合った。
動物や鳥と、あまり目を合わせていてはいけないと、聞いたことがあるけれど。・・・
その、あまりに大きくて華麗な色の氾濫のせいか、後ろの森の暗さが黒さを増し、クジャクの美しさを際立たせている。そこだけ急に大気が澄み渡り、真空になって、湿り気も朧もすっかりないくっきりとした空間になっているような、鮮やかさだ。 
しばらくしてクジャクはそのままゆっくりと、薪小屋の角を曲がって消えていった。

僕はあまりのことに、呆然と立ち尽くしていた。
そしてあわてて後を追った時には、クジャクの姿は、もうどこにも見えなかった。
あれは本当に、この次元の出来事だったのだろうか。

”僕もいつか、クジャクとヒツジを飼ってみよう” という歌がある。
僕の大好きなシンガーソングライターの、「時間の終わりに」という曲だ。
僕はその歌を聞くたびにいつも、クジャクとヒツジを飼うってどういうことだろうと、思っていた。 
・・・今はその歌は、遥かに遠く甘い思い出の中の、古い屋敷の、ぼうっと光って幾重にも重なる奥深い暗闇の中に、置き忘れられたままになっているけれど。・・・

クジャクとヒツジ。それはたぶん、本当に大切なもののことなのだろう。それさえあれば、他のものはどうでもいい事のような。
クジャクとヒツジ。もしかしたら遠い昔に、僕も飼っていたことがあるのかもしれない。
何千年も何万年も昔に。

宇宙空間から降り注ぐニュートリノが、僕の体を突き抜けていくのがチクチクと痛い。
その曲の最後に、僕がとても好きなフレーズがあって、彼はとてもとても遠くの時間を日常のひとこまとして見つめながら、軽やかに言うのだ。
”バイバイ、また会おうね”