島日和<ひょうたん島後記>
8-2022 池田良
地球のはしのヘイの上に腰かけて、足をフランフランと揺らしながら、アリスはガムをくちゃくちゃ噛んでいる。ウサギはどこへ行ったのだろうと思いながら。
あたりは一面草の海。
空はまるで水彩絵の具で描いた空のように、青くて静かだ。いくら夏休みだからといったって、雲がひとかけらもない空なんて、なんだかやっぱりあやしい。
ウサギを見かけなくなって、もう3年ほどもたつだろうか。
奇書の中から飛び出してきたような、支離滅裂のナルシスト。ウサギはキス魔で電話魔で、アリスにウサギ印の携帯電話を持たせて一日中朝から晩まで電話をしてきたり、いつでもどこでもキスをしてきたり。(雑踏の中だろうとみんながこっちを向いている赤信号の交差点だろうと)まるで高速逆回転で子供時代に戻っているような日々。甘い悪夢の不思議な時間。夢のようなきりきり舞い。
でも、そんなウサギのおかげで、アリスは、もっともっとむき出しの自由気儘、傍若無人で生きていけたらと、思うようになったのだ。
よく朝。
小さなトランクをひとつ持って、首には薄茶色のオーガンジーのリボンを結んで、アリスは夏休みの旅行に出発した。
目指すは、昔々の不思議旅行でふと通り過ぎた、あの小さな半島の深い深い湾に浮かんだ、霞のように淡い島。
人の気配はするのに、住んでいる人にだれも出会わなかった島。草木に埋もれた家の中に生活の痕跡は見えるのに、暮らしている人をだれも見かけなかった島。
「隠れ家を造るのにはぴったりの所ですねえ」
と言って、ウサギはうっとり耳をこすっていた。
「迷子になった人が、帰り道を思い出すまで潜んでいるのにもぴったりの所かもしれない」
アリスはその場所も、行き方も、今はもう思い出せないけれど、首にかけたジシャクを頼りに西へ真っ直ぐ進んで行けば、きっとたどり着けるはず。
そしてアリスは、昼を紡いで風を飲み、夜を渡って星を食べ、ふらりふらりと地球をひと廻り。
けれども島には出会えないまま、すっかり疲れ果てて、この地球の東の端のヘイの上にまた、戻ってきた。
「おかしいなあ。方角はあっているはずなんだけど。何か大切なものを、見落としてしまったのかしら」
ヘイの上から見る草原は、相変わらずきらきらとまぶしいほどに輝いているけれど、どれほどの季節がめぐったのか、出発した時とは違う光の匂い。
風が、草をかき分けて進んでくる。
風が広げた草の中に、小さなネコがいて、こちらをじっと見ている。
「ここいら辺に、あんなネコがいたかしら」
アリスがそう思っていると、ネコがピョンピョンと草の上を飛ぶようにやって来て、すました顔でアリスの隣に座った。
「やあ、どこから来たの?」
そうネコに言われて、
「えっ?どこかから来たのはあなたのほうでしょ」
そう思った瞬間、アリスは大変なことに気づいた気がして、ぐるっと世界が一回転したような目まいに襲われた。
「あのう・・・ここはどこでしょうか」
思いきってそうたずねると、ネコはちょっとドギマギした様子で、目玉をぐるぐる回転させた。
「それはほら、島ですよ。小さな半島の真ん中あたりにくっついた、島です」
「島なのね!半島にくっついているの?」
「それはだって、周囲を水に囲まれていなくても、島という所は、たくさんあるでしょ。広島とか、糸島とか・・・」
「その島は、ちょっと、意味が違うんじゃないかしら」
そんな、さぐるようにあいまいな話をしながら、二人は相手を怪しんで、お世辞笑いをする。
空はまるで、水彩絵の具で描いた空のように、鮮やかな夕焼けになっている。
思った通り、西へ真っ直ぐ進んで行けば、島にたどり着けたのだ。
でもここは、いつもアリスが草原を眺めながら、詩を書いたりパズルを解いたりしている、東の端のヘイの上のはず。
そしてやがて薄暗くなってきた草原のあちこちに、小さな明かりが灯り始めると、人々の生活の気配が、よみがえる様に、むくむくと立ち上ってくる。