島日和<ひょうたん島後記>

        11-2022   池田良


ネコが、僕の家の周りの草原の中をぐるぐるぐるぐる勢いよく走り回っている。
何をしているのだろう。
ネコはよく、何を考えているのか僕には理解できないことをしている。
「別に何もしていませんよ。リラックスして、筋肉も脳ミソも力を抜いてぼうっと集中していれば、うまくいくことはたくさんあるって言うじゃない?その練習をしているだけです」
それで何も考えずに走り回っているの?

この頃、秋も深まって、もう風はだいぶ冷たくなってきている。
草の中には様々な秋草の花が、少し寒そうに揺れている。
「丘の上の広場の草原に、今年は野菊がとてもたくさん出ているんですって。知ってました?」

その日の午後、さっそく僕は、おやつ用にアケビとクリームのサンドウィッチを作って、丘の上の広場の草原に出かけて行った。
風はキラキラ秋の日色。
草原は一面、紫色の野菊の海。
可愛らしい花がぎっしりと、夢見るように咲いている。
本当にすごい。ちょっと怖いようだ。今年はなぜこんなにたくさん咲いたのだろう。足の踏み場もないくらい。お天気のせいかしら。
野菊の花の匂いが薄く流れる。ほんのかすかな、言葉のない香り。
さあ、草原の真ん中に行って、花の中で何をしよう。

野菊を踏み分け踏み分け、丘のてっぺんまで歩いて行く。
それはてっぺんなのかどうなのか分からないほどの、ほんの小さな勾配だけれど、そこに立つと、広場の草原全体がぐるりと見渡せて、風がぐるぐると回っているのが感じられる。
その風の中に、川のほとりのカフェの草屋さんが、一人ぽつんとゆれていた。

彼女は風に乗って舞い踊っている花びらのように、くるくると回りながらこちらに近づいてくる。
「お久しぶり。ずいぶん会わなかったわね。この前お会いしたのは、もう何年も前の様な」
「そんなことはありませんよ。ほら、春にお花見のお茶会をしたでしょ」
「ああ。あれは、今年の春だったかしら」
彼女は相変わらず、ふわふわとした甘いワンピースを着て可愛らしい帽子を被り、爪にカラフルなネイルをしたり、耳にたくさんピアスをしたりしている。
「なんだかこの頃、月日の長さがよく分からなくなって・・・。疫病にかからないように家にこもりがちだったせいかしら」
あれから、確かに時間は歪んでねじれてきているように、僕も感じる。閉じこめられた空間が、ぎゅっと圧力をかけているのかしら。

「あなたも野菊を摘みに来たの?今年はずいぶんたくさん咲いているものね。何だかちょっと怖いくらい」
そう言って彼女は目を薄くして、視線を風に流した。そのまなじりが美しい。
「やっぱり色々な事の影響なのでしょうか。雨が多かったとか、気温が高かったとか。植物は地球の微妙な変化にとても敏感で、繊細だから」
「そうねえ。でもそれだけじゃないかもしれないわよ。とても敏感で繊細だから、ちょっとまた違った何かを感じているのかも」
彼女は意味ありげな含み笑いをする。

それから僕たちは、野菊の花を籠いっぱいに摘んで歩いた。
彼女は小さな声で歌いながら、踊るように花の草原を回っていく。
「あなたも、野菊をいっぱい浮かべたオフロにするの?」
「ええ。それから、野菊のサラダも」
野菊のサラダはかなり苦い。その苦みが、忘れられない悲しみを、体の奥のずっと奥へと埋没させてくれる。
「野菊はね、やかんの中で煮出してその煎じた汁もオフロに入れて、目を温めるといいのよ。ぼんやりユラユラした目がはっきり見えるようになってくるって言うわよ」
彼女の、ちょっと涙っぽい潤んだ眼で見る世界は、レースのカーテンを引いたような、淡く揺らめく世界なのだろうか。

それから家へ帰ってオフロを沸かし、野菊をいっぱい浮かべて、僕は髪を切った。
僕はいつも一人で、バスルームで髪を切る。もう何十年もお店で切ったことはない。
肩まで伸びた髪を、ギザギザハサミでジョキジョキと無造作に切って、あとは鏡を覗いて、チョキチョキと整えていくだけだ。
髪は、春から夏の間の浮かれ心や悲しみをずっぷり吸い込んでいるから、かなり重くてかすかに光っている。

もう秋も終わりなのだ。
もうすぐ冬が来て、僕たちはひっそり冬眠をしたり、雪の中を彷徨ってみたりする。
森の中では、どこか遠くへ出かけて行った人々の残された声が、ほのかなこだまになって、うっすら響いている。

僕は野菊のオフロの底深く、深く深く沈んで、ぎっしりと花が輝く水面を見上げる。
リラックスしてぼうっと集中し、筋肉も脳ミソも力を抜いていれば、温かい水が、僕の体をゆっくりと運び上げ、野菊の輝く水面へと、高く高く上昇させていく。