島日和<ひょうたん島後記>

         7-2022   池田良

僕はこの頃、とても寒がりになったのかもしれない。

今年の冬テレビが、体を暖かくしていないと免疫力が下がってしまいますよ、免疫力が一番大事ですよ、といつも言っていたから、僕はすっかり厚着の癖がついてしまって、少しでも涼しいと、セーターを重ねてしまうのだ。もう夏だというのに。

リビングのイスの上には紫色の薄手のセーターがいつも置いてあって、少しヒンヤリした朝や、少し淋しい夕方にそれを羽織ると、温かいお風呂や優しいフトンにくるまれた時のように、心もふんわりと安らかになる。
「こんなに暑い夏なのに。この島でも、あなたが一番の厚着ですよ」
そう言ってネコは、ちょっとばかにしたような薄目で笑うけれど、ネコだって、一年中いつでも毛皮の服を着ているし、その光沢や縞模様を自慢げにキャットウォークしたりしている。

それにしても今年の夏は、妙な涼しさの日があるような気がする。そうかと思うと、ギラギラとした酷暑の日々になることもあるのだけれど。それはうわべだけの様な感じがして。このままオロオロと精神的な寒さの夏になるのだろうか。
「月の軌道がちょっとおかしいって、この前気象台に遊びに言ったら、博士が忙しそうにしてましたよ。それって、お天気のことと関係があるんですって」
そう言ってネコは、虫よけの草をカシカシと噛んで、体にゴシゴシ擦り付けたりしている。
「へえそうなの。ちょっと差し入れを持って、偵察してこようかしら」
そして僕たちは、白いレンゲで編んだ花の首飾りをおみやげに持って、気象台まで訪ねて行った。

海のそばの気象台は、夏でもモワモワとした湯気につつまれている。

「ここでは、色々な計器が暑さに弱いから、冷房を効かせなくてはいけないんだけど、僕が乾燥にとても弱いので、いつでも蒸気を出しているんですよ」
そして気象官の博士は、おみやげのレンゲの首飾りを首にかけた。
「ああ、いい匂い」

モワモワとした湯気は、湿った空気が好きな僕にも心地いい。湿度が高い時は、両手の細かい皺もふんわりとやわらいでいる感じがする。
「僕は細かい雨の日も好きだから、車のフロントガラスに雨粒がくっついて水玉模様になっている時は、ワイパーで落とさないで、そのまま走っているんですよ」
僕が、窓ガラスの湯気に模様を描きながらそう言うと、博士はにっこり笑った。
「それは、美しいでしょうねえ」

気象台の中は、様々な計器がかすかな音を立てている。コトコト、チリチリ、サワサワ。
それが響き合って、なんだか忙しそうな雰囲気を作っているのだ。
「月の軌道がおかしいって、僕には全然わからないけど」
「それはそうですよ。お天気みたいにはっきり変わったりするわけじゃないから。データーを調べても、よくは分からないような。つまり、気分的確信といったものです」
「気分的確信?」
「でもこれが、科学の分野だけじゃなくて色々な分野においても、とても重要なのです」
そう言って、博士は僕のメモ帳をチラリと見た。僕は、メモを取っているのが、なんだかちょっと恥ずかしい気分。

「僕はちょっと感じますよ。ネコは引力や磁力に敏感だから。月の満ち欠けで、心も変わる」
そう言ってネコは、熱心そうに計器を見ている。
「そうです。月の満ち欠けは、この星の生物すべてにとても強く影響しているのです。僕たちはそのリズムで生かされているのだと言ってもいいくらいにね」
そして博士は窓のふちに腰かけて、お茶をコクリと飲んだ。気象台のキッチンで、さっきネコが淹れてくれた、赤みの強い紅茶だ。
「月が出来た頃には、地球と月はもっととても近くて、すぐ目の前を回っていたから、月のウサギと握手ができるほどだったんですよ」
そう言ってとてもやさしい目で、楽しそうに博士は笑った。

帰り道、僕たち二人は、そんな博士を思い出しながらずっと笑い合っていた。
「月のウサギと握手のし放題」
ネコははしゃいでくるくる回る。
「月のウサギの手は冷たいのかな、やわらかいのかな。ふふふ」
そして僕たちは手をつないで、草原でピョンピョン踊った。
~月のウサギの道化ダンス。右の目玉と左の目玉は、違う世界を見ることができる~

やがて気が付くと、背中の後ろに大きな満月が昇り始めている。
それはとてもとても大きくて、いつもの月の出とは違う気配。
そしてそのまま、ますます巨大になる月に、僕たちはきつく手をつないだまま立ち尽くしていると、月の表面に影のように真っ黒なウサギが現れて、声をひそめてこう言うんだ。

「君たち、そこは危ないよ。早く逃げなさい」