島日和<ひょうたん島後記>
12-2021 池田良
リビングの窓をフルオープンした時に心に湧き上がる高揚感や、ハンモックに寝ころんで、微かに揺れながら空を見ている時の浮揚感は、寂しさに縮こまった心を少し温め、じんわりと開放していく。
空を飛ぶ夢を見る時の高度はいつも、自転車に乗っている時の高さ。
家々の軒下ほどのところを、フワフワと泳ぐように進んで行く。
昔は、飛行機に乗るのが怖かった。落下するイメージにとらわれて。
発着のときには目をきつく閉じて、窓の外は見ないようにしていた。
でもある時に、窓側の席に座らせられ、次々と湧き上がる白い雲の館や、満月の光に虹色に輝く雲海の大海原、キラキラとまぶしく明滅する夜の東京の広大な光の海を見て、飛行機の楽しさに目覚めたのだ。
今は、飛行機に乗るのが、旅の楽しみのひとつ。
特に、あんなに怖かった離陸の時、大音量のイヤホンで音楽を聴きながら、空の中へと舞い上がっていく体の、無数の細胞たちがざわめく高揚感。
その日、いつも行くスーパーマーケットの駐車場で、とても可愛らしい車を見かけた。
青緑の淡いカラーで、まるいヘッドライトにはまぶたのようなものが付いている。小さな車体は二人乗りらしくてとてもロマンチック。
僕は、寝ている子猫を見かけたときのように、思わずニヤニヤして見とれてしまった。
「ステキな車でしょ」
後ろで声がして、振り向くと、買い物バックを抱えた人が微笑んで立っている。どうやら彼の車らしい。
「ええとても。写真を撮ってもいいですか?」
風が、ふわりと吹いた。
「はい。・・・よかったら、運転してみます?」
僕はちょっと驚いて、躊躇したけれど、自分でも意外なほど素直な気持ちで、運転席に座った。
「ステキな車も、中に乗り込んでしまえば、自分では見られない。ふふふ。でも内装もかわいいでしょ? では、行きましょうか」
僕はいつも、中で寝泊まりできるワンボックスの少し車高が高い車に乗っているので、可愛らしい乗用車に乗ると、その視界の低さがちょっと怖かった。
「海辺の道を走って、パシフィックドライブインの所でターンして、あなたの車がとまっている駐車場へ戻って来ましょう」
二人乗りの小さな車は、楽しい気分を盛り上げる。こんな車でデートしたら素敵だろうな。
彼がスイッチを入れると、スピーカーから古いジャズが流れた。
テイクファイブ。 昔、この曲をよく流していた人がいた。
海はキラキラとまぶしく輝いて、赤い帆のヨットが一列に並んでいる。
「じゃあちょっと、上昇しましょう」
そう言って彼が、二人の間にあるギアを、ぐんと引いた。
急に車が、ふわっと、浮き上がったような感じがする。
「大丈夫です。そのまま普通に、車を運転していて下さい」
あきらかに、車が空間に浮き上がって進んでいる。
僕は恐怖の感覚と、歓喜の感覚が、ごちゃまぜになって、心臓が痛いほどドキドキと高鳴った。
「軽飛行機になる車なんですよ。自分で飛行機の操縦をして空を飛ぶのは、とても素敵でしょ」
それは、本当にまるで、鳥になった感覚そのもの。
空間を自由自在に操っているような、底なしの開放感。
鳥や昆虫や種子、空を飛ぶもの達は、毎日歓喜の命を生きているって聞いたことがあるけれど、それに少し近づいたかもしれない感覚。
アクセルを踏み続けると、車は結構高度を上げていく。
「ああ、僕の島が見えますよ」
静かな入り江全体が見えて、僕たちが暮らす島が見える。
「あれは、違う惑星の入り江ですよ。ソラリスという星です。よく見てごらんなさい。あなたたちの島とは違うでしょ」
この人は何を言っているのだろう。そんなはずはない。僕たちは宇宙へ飛び出してしまったりなんかしていないもの。
しかし、ゆっくり高度を下げて島へ近づくと、その丘や池や小道、草原まで、僕たちの島の風景なのに、小さく見える人々や家々に、奇妙な違和感があった。
・・・それは、どんよりとした懐かしさのような、ほのかな、恐怖のような。
「さあ、もう戻りましょう。あそこにはあまり近づかない方がいい」
懐かしさの中には、微かな狂気と、ほのかな悲しみがまじっている。
寂しさは指をしゃぶって紛らわしている方が、いいのかもしれない。
そして僕たちは、パシフィックドライブインの駐車場でターンして、ギラギラした巨大な夕日の赤にどっぷり染まりながら、スーパーマーケットまで戻ってきた。
その距離はそんなに遠くないはずなのに、その時、あたりはもう真っ暗で、駐車場には僕の車だけが、一台、ポツンと止まっていた。