島日和<ひょうたん島後記>

       11-2021     池田良

何処かの誰かの、ほんの一瞬の油断で、ちょっとした失敗の些細な種が一つ、ぷちんとはじけて飛び散り、飛び散った喜びでするりと誰かの息の中に入り込み、無数に分裂して息から息へ、世界中に薄っすら漂う人々の吐息の薄雲の中を、クスクスゆり広がり、ゲラゲラと疾走し、やがて大音量のロックンロールで世界一周のクルーズツアー。勢いづいて歓喜の惑星征服。何でこんな事になっちゃったんだろう。何でこんなにあっさりと、あっという間の全面統括。

都会へと走る四角い箱の電車の中で、澱んだ空気の重い気配に、ふと振り向くと、こちらを向いてずらりと並んだ座席に座り、お揃いのマスクを付けてうつむいている人々の中の何人かが、鋭い虚無の眼差しで食い入るようにじっと、僕を見ている。
それはまるで一夜の恐ろしい夢。それはまるで一夜の甘い夢。
夢はいつか、もうすぐきっと、跡形もなく砕け散って、引き潮のようにいっせいに消えてなくなり、こっそり残ったほんの小さなはかない一粒が、ふらふらと、誰かの吐息の奥の奥にもぐり込んで、何十年何百年。息を殺してじっと死んだふり。夜毎に一粒の、忍び笑いの涙をしゃぶりながら。

家の前にみえる入り江にこの頃、巨大なクルーズ船が泊まっている。
それはいつ頃から泊まっていたのか、記憶がなくて、もしかしたらもうずっと昔からそこにいたのかもしれない。
真っ白に輝く美しい船体は、湖のように静かな入り江に、しっかりと固定されたように立っている。

「あの船は洋上の楽園なんですよ」
たまに注文が入って、船に配達に行くことがあるという、油屋のレゲエ青年は言った。
その中には百人以上もの人々が乗り込んでいて、誰一人として、船から降りることなく暮らしているのだそうだ。
船の中は大きな街のようになっていて、豪華なレストランもあれば、映画館や劇場もある。おおきなプールやショッピングモールもあって、生活に必要なものはすべてそろった楽園のようなところだという。
「なんといっても、職場と学校がないんだから」
そう言って、レゲエ青年は高く笑った。
「愛する人のバースデーには、花火の打ち上げを注文することもできるんですって。とてもロマンチックでしょ」
そんなことまで出来るんだ。それでたまに打ち上げ花火が、一つ二つと上がるのかしら。・・・でも僕だったら、腕いっぱいの手持ち花火の方がいいかな。手持ち花火は、ふたりだけのものという感じがするから。打ち上げ花火は、それを見上げる人、みんなのものだから。

「多いのは、お金持ちの御老人たちですよ。暇とお金がたっぷりあるね。でも、子供連れの家族もいるし、若いカップルやご婦人たちのグループもいる。まあ色々です。あの中にいればね、安全で安心なんですって」
そして彼は唐突に、声をひそめて囁いた。
「ほら、どんな疫病が流行っても、船の中には入ってこないようにできるし」
船は、いざという時には門戸を閉ざし、核シェルターのように何日もその中で生活できるようになっているのだという。
「そして船の中で疫病が流行った時には、外へ出さないようにもできるし」
僕がそう言うと、レゲエ青年はびっくりした顔をして、少し戸惑ったように笑った。
「なるほど、逆も真なりってことですかね。でも、それって、どうなんだろう。ほら、色々問題もあるんでしょ」
そして、それはこの宇宙船地球号も同じこと。僕たちは色々あってもこの星の外では暮らせない。 ・・・生きていくことと、暮らしていくことは、違うような気もするし。

白く輝く巨大クルーズ船は、夜になると全身にきらびやかな明りを纏って、真っ暗な海辺で夢のように輝く。
それは僕の家の窓からも見えて、僕はその都会の夜景のような美しいきらめきを見ながら夕食を食べている。

船は昼も夜もとても静かで、近くに寄って見上げてみても人の気配はなく、音楽も人々の声も聞こえてこない。
本当にこの中に百人以上もの人々がいて、楽しい日々を過ごしているのだろうか。中に入ったことがあるというのは、油屋のレゲエ青年ばかり。
他の島民たちに聞いても、誰もまるで興味がない様子で、知らないというばかり。
入り江に眼球のない巨大な亀が打ち上げられた時には、あんなに大騒ぎして、みんな毎日毎日、海辺に集まっていたのに。

そして僕の中でも、やがて、美しく巨大なクルーズ船も入り江の風景の一つに過ぎなくなっていくのだろうか。
そこにあってもないと同じ。まるで気にならないものにと風化していくのだろうか。

・・・そしていつか、跡形もなく砕け散って、忍び笑いの死んだふり。