日本語の欠陥をついに突き止めた

どうもこんにちは、辺屋ハクと申します。

主文を前にまず理由から述べる

はい。こちらですね。
Xで3万6000いいねを獲得したこのポスト。
トピ主が母親に鮭の切り身が必要かどうかを確認したところ、
いるかいらないかを聞いているのにダラダラと
母親が関係なさそうな話をしてイラっとしたという内容。
最初に言っておくと、私はこの人を叩きたいわけでもなく、
否定をしたいわけでもない。
むしろどちらかと言えばトピ主と同じく、
「端的に答えてほしい」と思ってしまう側である。
この「端的に答えてほしい脳」というのは、
インターネッツでも共感を得ているからこのいいね数なのだろう。
しかし私はこれが人との会話を楽しめない原因なのではと考えていた。

その理由を述べる。
まず、トピ主が「鮭の切り身たくさんあるけど何枚かいる?」と問う。
おそらくスーパー内で電話を使用して会話していると推測。
それに対して母親は「この前コストコで買った鮭」の話を始める。
この会話は成り立っていないか?
一見すると成立していないように見える。
トピ主はQを投げかけた結果が「コストコの鮭の話」なのだから。
しかしこれをよく考えると母親視点からしてみれば
「鮭は既にあるという前提の話」をしているのだから、
新しい鮭はいらない、というのがこの一文章からでもわかる。
というかよく考えなくてもわかる。
母親が主張したいのは「鮭を処分したい私」なのだから。
いらないとバッサリ切り捨てるのではなく、
やんわり断る母親の優しさなのではと感じる。
まず第一に母親は娘であるトピ主と会話をしたいのだろう。
それが親心なのだろうか。
この会話を端的に返すとたった三言で会話は終わる。
「鮭いる?」「いらない」「わかった」
これで終わり。おおよそ人間らしい会話ではない。
本件の冗長である会話は謂わば「世間話」に部類されるはずだが、
私はこういった世間話は苦手だ。
相手が必要かも不明などうでもいい話なんてしたくもないし、できない。
しかし、一般的に言えばこういった会話は人とのコミュニケイションを取る上ではおそらく必須技術とされる。
まずQに対してのAが欲しい。これは非常に共感できる。
トピ主も最初に「いらないかな」と言ってから、
鯖の話をしてくれと懇願している。それはそう。
しかし母親は理解しない。
なので、この際のトピ主が求める正しいコミュニケイションの仕方は
「今スーパーにいるんだけど、鮭の切り身っている?急いでるから短めに答えて」と、今長話をしている場合ではない、
という原状を伝えた上で母親に質問を投げかけるべきであったのでは?

話を戻す。
そして母親は「あ、ごめんね」「○○さんからの鯖のオススメ」
「□□に行って冷凍庫の話」「味がイマイチだった」と話を進める。
まず謝罪から入る。日本において「謝ったら負け」という言葉があるが、
これは謝罪=自らの非を認めるということに繋がる。
よって母親は相手が意図しない話が長くなることに対しての謝罪をしていると推察する。これによって話を続けますよというスタンスを取っている。
これが会話の主導権の握り方なのか?
私は一般的な世間話は下手なのでよくわからないが、
おそらく今のネット民に必要なのはこの要素なのではないかと考える。
無駄話が出来る能力。世渡りにはこういった能力は必要不可欠。
政治家などはこういった会話手法はおそらく得意だろう。
そしてこの後の鯖の話の展開。冷凍魚繋がりでの話を繋げ、
味がイマイチだったと〆ている。
この文章だけではイマイチだったのは鮭なのか鯖なのかはわからないが、
ひとまず母親は魚はいらなそうだと判別つくだろう。
しかし、その後母親は「少しいただこうかな」と話を続ける。
ここまで話をしておいて、結果的には母親は鮭を必要としていた。
これがイラっとするポイントに繋がるのでしょう。
いるのかいらないのかどっちなのか。
ここはトピ主に共感できる部分。
まあこれは女性特有の考えの移り変わりだろうな、
というと昨今のジェンダー論的に問題がありそうなので、
優柔不断な性格であるということにしておきます。
裏を返せば、母親の「せっかく娘が鮭が必要か聞いてくれたのにそれを無下にするのも可哀そう」という優しさにもとれる。

最後にASD息子を揶揄するような終わりをしているが、
私から言わせれば、会話する気のない人間のほうがアスペっぽいし、
この母の意図を読み取ろうとせず、
わかりやすい答えを求める、この息子にしてこの母ありだなと思うし、
これに文句を言う人は逆に端的に言ってもキレそうだなと思うだけです。
これこそが日本人のギスギスする原因のうちの一つ、
言葉の綾と、決して相容れない「話すことが主体の人」「答えが主体の人」
が衝突したときに起こる事故みたいなモノだろう。
あとネットの反応を見て思う。
「母親がアスペ」「トピ主がASD」という、
どっちかが発達障害認定されるのもうやめませんか。
一緒に鮭を買いに行ってほしいんですよね。多分。

ここが嫌だよ日本語

タイトルで仰々しく、欠陥を見つけたなんて書いてしまったが、
欠陥というより、良い側面もある。
上記のような会話のすれ違いはおそらく頻繫に起こっているだろう。
日本語の繊細なニュアンスは、コミュニケーションを豊かにする一方で、
時には微妙な誤解を生むこともある。
特に、人の評価を話す際の表現にその差が顕著に現れます。
例えば、職場や学校での人間関係において、
同僚やクラスメイトについて話す場面を例に挙げる。

AさんがBさんに対して、
「Cさんって、プレゼンは上手いけど……」
と言った場合、
この「けど……」の後に続く言葉が言われなくても、
Bさんは「プレゼン以外はイマイチなのかな?」
と推測してしまうかもしれません。
この一言が、Cさんに対するBさんの印象を大きく左右することになります。

一方で、Aさんが
「Cさんって、プレゼンも上手いし、チームワークもいいよね」
と言えば、BさんはCさんの多面的な能力を認識し、
より肯定的なイメージを持つことでしょう。
この場合、AさんはCさんの良い面を複数挙げることで、
Cさんへの評価が高いことを示しています。

このように、日本語では「けど」と「も」のような接続詞一つで、
話のニュアンスが大きく変わります。
これは、相手に対する敬意を表したり、誤解を避けるために、
言葉を慎重に選ぶ日本特有のコミュニケーションスキルと言えるでしょう。
しかし、このスキルは習得が難しく、
日本語の微妙なニュアンスを正確に理解し、
適切に使い分けることは、日本語が母語でない人にとっては特に困難です。
さらに、このような言葉遣いは、相手との関係性やその場の文脈によっても変わってくるため、日本語のコミュニケーションは非常に複雑です。
世渡り上手な人は、このような微妙なニュアンスを巧みに操り、
自分の意図を正確に伝えると同時に、
相手に不快感を与えないようにします。
これは、単に言葉遣いの問題ではなく、相手への配慮や敬意、
そして自分の社会的な立場を守るための戦略でもあります。

たった一文字違うだけでも他人からの評価は天地の差である。
私自身は、言葉を端的に述べるタイプなので、この「言わないけど伝わる」文化には苦労しているし、多分人生損している。
直接的な表現が誤解を招くこともあり、日本語の繊細さには頭が下がる。
しかし、この文化を理解し、上手にナビゲートすることで、より円滑な人間関係を築くことができるのもまた事実。




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