幸せに死にゆく日に向かって、幸せに今日を生きる。 ~「いきたひ」という映画から教わったこと ~
今までの人生の中で、身近な人の死にゆく瞬間に立ち会ったことがあったかな…。
思い返してみても、そういう瞬間はなかったように思う。
「死ぬ」って、怖くて、苦しそう。暗くて、辛そう。
自分がいつか死にゆくとき、できればその瞬間を、安らかに迎えたい。
でも、誰かのその瞬間に立ち会うのは、できれば避けたいような気もする。
だって、悲しくて、辛くて、落ち込みそうだから…。
「いきたひ」の上映会に行ってきた。
たいせつなお友達が主催する上映会&講演会であることや、少し前に義父の末期がんが発覚したこともあり、重いテーマではありそうだけれど、行ってみようと思っていた。
が…上映会に足を運ぶかどうか、ギリギリまで迷っていた。
昨日の記事の通り、「息子が学校に行かない件」に翻弄されていたことで、気力も体調もガクッと落ちていたからだ。
やっと自分の気持ちと折り合いが付いて、ゆっくりと浮上しはじめた気持ちを、違う角度から再び深く沈めることになったら嫌だな…と思った。
でもなんとなく、「いってみたらいいよ♡」と言われている気がしたので、本日もお休みの息子と相談して、急いで電車に飛び乗り、参加してきた。
「生きる」と「死ぬ」の本当をみせる。
自分らしい生き方とは?と考えることはあっても、どう死んでいくか、誰とその時を迎えたいか、なんて真剣に考える人はまだまだ少ないだろう。
映画では、様々な看取りの体験談がちりばめられていて、「死ぬ」は幸せなゴールにできるんだ、と知ることができた。
ゴールといっても、肉体を持つ私がそこから離れるという通過点にすぎない。
(と表現すると、とたんにスピっぽさが増す気がする…)
人が肉体をもって生まれて、生きて、死ぬ。
昔の人はみんな、老いていくさま、死にゆくさまを見る機会があった。
死にゆくさまを見せることは、生きるために必要な教育。
今の世の中は、面倒で手間のかかることを、かわりの誰かが完成させてくれた状態で、目の前に運ばれてくる。
人が死ぬ時だって、大部分はそうなっているように思う。
病院で亡くなって、きれいになった状態で、家に帰ってくる。
家で死にゆくことって、その最期の瞬間とその後の時間まで、大切な人を 人として愛することなんだろうな。
死にゆく瞬間に、その人の手に触れると、とてつもなく大量なエネルギーが放たれて、自分の中に入ってくるらしい。
死にゆく人に、触れる。
触れられながら、死にゆく。
それも、いいかもしれないな。
はじめてその光景が、自分の最期のイメージにくっきりと加わった。
こんな風にきれいな言葉を並べてはみるけれど、理想と現実は、また違う。
祖父を看取った母は、介護がとても大変そうだった。離れて暮らす私は、ほとんど何もできなかった。
祖父が亡くなるその時、母は妹と一緒に祖父の手を取って見送ることができた。
「だから悔いはない。やり切った。」と母は話していた。
「どんなふうに死んでいこうか」と自分に問う。
私はどんな風に、死んでいこうか。
私はどんな風に、大切な人を見送ろうか。
私は残していく人たちに、何を伝えようか。
そんな風に考えてみることで、今をどう生きるか、決めていこう。
息子が学校に行かないことなんて、ちっぽけに思えた今日。
(たぶん、また揺れますけどね…)
家族、親、私と出会ってくれた大切な人たち…
みんなの顔を思い浮かべては、泣いた日になりました。
沢山の素敵な言葉を聴いたけれど、もう覚えきれないから、いい。
ぜひ機会があれば、上映会に参加してみてください。
きっと、心が軽くなるものを、受けとれます!
サポート、よろしくお願いします😌💓 みなさんのあたたかいお気持ち、ありがたいです! とても励みになります。