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「いじめの本質を考える」という記事を書いていたら、恐ろしい結論になってしまった。でも本質に少し近づいたかも。

僕は今まで「いじめ」の本質は、異質なものに対する不寛容からくると勝手に定義していました。

つまり自分とは異質なものを排除したがるという人間の本能です。

もちろんそれもあるとは思うのですが、なぜか僕の思考はそこまでで停止していました。当たり前だがそれだけでいじめは起こらない

じゃあそこに何が加わるといじめが起きるのか

…僕はここまで書いて、自分の経験や具体例、「いじめ」のありとあらゆるケースを列挙していき、最終的に「いじめの本質は序列意識にある」などという安易な終わりを想定していた。

しかしデリケートな問題なので記事をなるべく信用あるものにしたいと思い、他のネット上にある「いじめ」のメカニズムについても調べ始めた。

「いじめ」に対するあらゆる言説は、共通項はあるものの、どうも一つに絞れる範囲を超えていた

あらゆることが複雑に入り組んでいる。 

優劣意識(序列意識)・自己正当性・ストレスのはけ口・いじめる側の精神的なメリット・閉鎖的ないじめ・開放的ないじめ・意識的ないじめ・無意識のいじめ・自己否定・暴力性・パワハラ・大人のいじめ・子供のいじめ・スケープゴート・集団・個人・共感・モラル・親子関係・自慢・出る杭は打たれる・嫉妬・優越感・八つ当たり・権力・いじめられる側の原因…

切りがないが、一つだけ分かることがある。

「いじめの本質は○○」「対処法は○○」という唯一の答えはない。ということだ。

書籍にしても、ブログにしても

人それぞれの具体的な経験談や定義そして対処法があって、それは正しく実際にいじめが解決しているケースも多い。

だが一つには絞れない


そしてこれは調べていくうちに僕の中で新しく形成されていった「いじめ」に対する印象なのだが、

どうも「いじめ」という行為それ自体が、人間の本能っぽい。

これはどういうことかというと、

攻撃性や暴力性、異質排除性、優越性といった人間の本能が「いじめ」を起こすのではなく、

攻撃性や暴力性、異質排除性、優越性と同列に「いじめ」が配置されるようなのだ。

つまり人間の「いじめ性」だ。

ということは「いじめ」に対する見方を180°変えなければならない。

僕もいじめをする人間ということだ。

いじめられている人間もいじめをする人間だ。

そしてあなたもいじめをする人間だ。

ああなんて胸糞わるい記事なんだ。ここ強調する必要ないだろ。

でも大事なとこだ。目をそらしてはいけない。臭いものに蓋をする時代は終わった。

みんなみんないじめをするのだ。

書いてて自分に嫌気がさすけど。

でもこれが僕の結論だ。

じゃあどうしろっていうんだよ!?

とりあえず僕個人は「いじめ」をしないように理性で闘うしかない。

いじめをされたこともあるので、その時の気持ちを思い出して絶対にしないと誓う。しかない。

「自分がいじめをするわけがない」と思うんじゃなくて、「いじめをしてしまうかもしれない」と思って絶対にしないように気をつける。しかない。

この記事を読んだ皆さんもお願いします。

あと学校での対応策は、過去に起きた「いじめ」の事例をすべて統計をとり、パターン化して、特に本能に従順な子供の「いじめ性」を引き出さない環境・システムを構築することが必要なのだろう。(言葉では簡単に言えるけど相当難しいですよね)

「いじめは絶対になくならない」という言葉に僕は今まで反感を抱いていた。

しかしどうも本当になくならないっぽい。

人間はほんとうに本能に従順で、弱い生き物だからだ。

でも同時に人間は強い生き物でもある。

理性は人間にのみ与えられた特権だ。

人間の歴史は本能との闘いの歴史でもある。

僕らは死ぬまで「人間のいじめ性」と闘い続けなければならない。







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