【怖い話】 禍話リライト 「ごとん!」
最近はそうでもないかもしれないけれど、コロナ禍の生活というのは、どうしても同じルーチンの繰り返しになりがちなものだ。これはよく聞く話でもあるし、自分の実感としてもよくわかる。外出する機会も少なくなって、毎日同じ場所で同じことを繰り返すだけ。止むを得ずそんなワンパターンの暮らしを送る人も多いのではないだろうか。
Aさんはそんなルーチンの繰り返しの中で、ほんの少しだけ、いつもとは違う行動をとった。
これはそんな些細な変化がきっかけとなった出来事の話だ。
Aさんはその日、夜中に近所の自動販売機で飲み物を買いに出た。時間は夜の十一時を少し回ったくらいだろうか。よくコーラを買う近所の自販機の前まで行って、財布を開いたところで失敗に気がつく。
財布の中にあったのは、一万円札が数枚と、小銭は百円玉が一枚だけ。今時これでは飲み物は買えないのだ。最近の自販機であれば、飲み物の代金は、最低でも百二十円、高ければ百五十円というのが普通だろう。百円玉一枚ではどれも手が届かない。一万円札はあったが、あいにくと自販機ではそれも使用できない。
と、そこでAさんは思い出した。少し行ったところに、寂れた元商店街の通りがある。ほとんどの店は閉店してしまって、開いているのはタバコ屋が一店と、クリーニング屋が一店くらいだったが、そこに古い自販機があったはずだ。記憶が確かなら、百円で飲み物が買えたのではなかっただろうか。
十分ほど歩くことにはなるが、Aさんは歩いてみてもいい気分になっていた。
ちょっとした夜の散歩もいいだろう。
そう思って、とことこと夜道を歩く。
学生が多い近所の町並みから離れ、普段通らない道に入ると、古くからの住人が多い住宅街になる。どの家も静まりかえって、道路の電灯だけが道を照らしていた。
たどりついた一角は、記憶よりもさらに荒廃の程度が進行し、錆びたシャッターが並んでいる。当然ながら夜のこの時間に開いている店舗はないが、そもそもほとんどの建物はもう何年も使用されていないように見える。
記憶していた通り、自販機はまだそこに立っていた。
今時、コーラが百円で売っている古い型の自動販売機。ところどころ電気が切れて暗くなっていたが、かろうじてまだ稼動している。
良かった。助かった。
Aさんはなけなしの百円を投入し、コーラと書かれたボタンを押す。すると……
「ごとん!」
そんな声がした。
コーラの缶が落ちる音ではない。缶が自販機から落ちるのに合わせ、誰かがそう叫んだのだ。
え?
驚愕し、Aさんは周囲を見回した。
自販機の裏側には、二階建ての古びた安アパートがあった。切れかけた備えつけの電灯だけがちかちかと瞬きながら剥き出しの外廊下を照らしている。
その安アパートの一階の、台所と思われる窓がわずかに開き、その奥に女の顔があった。
間違いなく、この女の声だった。
女は無理な姿勢で身を乗り出し、しがみつくように窓を掴んでいる。見知らぬ若い女だった。顔をぴたっと窓の隙間に貼りつけて、「ごとん!」と言った口のまま、こちらをじっと睨んでいる。
え? え?
Aさんが自販機を使うのを見て、タイミングを合わせて「ごとん!」と叫んだのか。
嫌がらせにしても、あまりにも気持ちの悪いやり方だ。
薄気味が悪い……。
あまりのことにその場に立ちすくみ、数秒の間、体が動かなかった。そのあとに身震いが走り、それが合図になったかのように、唐突にAさんは駆け出す。
振り返るのも恐ろしく、そのまま足を止めず、一心不乱に足を動かした。
衝撃と恐怖で気持ちが沈み、走りながらも、目はじっと足元だけを見つめていた。足音にもかまわずに静かな住宅街の間を走り抜け、素早く角を曲がる。
馴染みのある家の近所まで到着したところで、ようやく速度を落した。
無心に走ったせいで、帰り道は行きの半分ほどの時間しかかからなかった。マンションが見える距離まで来て、ほっと胸をなでおろす。家の鍵を開ける指はまだ震えていた。
部屋の扉を開いたところで違和感を覚えた。
部屋の中が真っ暗だ。
電気は点けっぱなしにしなかったっけ?
居間の内扉も開けたままだったような……。
恐る恐る内扉を開ける。
暗い部屋の中を覗き込んで、右を見ても、左を見ても、人の気配はない。出がけに見たのと変わった様子はない。
電気のスイッチを入れる。すると……。
「ぱちん」
ベランダの方から聞こえた。大声でもなく、普通に話す程度の音量で、感情をこめずに「ぱちん」と無機質につぶやく声だった。
○
急いで部屋を飛び出しながら、Aさんは考えた。
仮に家まで尾けられたのだとしても、Aさんは全力で走って帰ってきた。先回りして部屋に侵入するのはまず不可能だろう。最初の自販機の出来事に怯えていたせいで、屋外の声を聞き間違えたのかもしれないが……。Aさんの部屋は五階にある。
わけがわからなかったが、とてもひとりで部屋に戻る気にはなれなかった。
Aさんは、電話で近所の友だちを呼んだ。ゲーム好きで夜型だから、確実にまだ起きているはずだ。
マンションのエントランスに来てもらう。
友だちは恋愛絡みで何かあったのだろうと邪推したらしく、にやにやしながらやってきた。
「いやいやそんな話じゃなくて」と、あったことを説明する。
話を聞きながら友だちは怪訝な顔をした。
「いやそれ、一から十まで勘違いだよ」
一から十までって……。変な表現だと思ったが、友人が言うには、そもそも最初の自動販売機の件からしておかしいという。
「あの古い自販機でしょ? あのアパートに知り合いが住んでたから知ってるけど、取り壊しが決まってもう誰も住んでないよ」
「いや、はっきり顔見たよ!」
「え、本当に……?」
友人は半信半疑だったが、家に行くのは嫌だと言われたので、結局その日は友人宅に泊めてもらうことになった。
翌朝ふたりで件のアパートを見に行ってみた。
友人の言った通り、アパートの入口は完全に封鎖されていた。外から錠をかけられていて、力まかせに開けようとしても開きそうにない。昨日の窓にもしっかり鍵がかかっていた。
「なあ、このアパートで誰かが死んだとか、そういう話は聞いたことあるか?」
友人は首を振った。
ここは元々男性専用の物件で、誰かが女性を連れ込んで問題になったことはあった。それは確かに一階のその部屋だったかもしれないが、女性は死んではいないはずだという。
結局、何もわからなかったが、後にAさんが聞いたところによれば、近所の子どもたちの間で、その廃アパートで女の幽霊を見たという噂が広がっていたそうだ。二階の外廊下を女が歩くところを何人かの子どもが見たが、一目で人間でないとわかるような歩き方だった、という話だ。
この記事は、怪談ツイキャス「禍話(まがばなし)」で放送された怪談をリライトしたものです。
https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/668382280
2021/02/20放送分「禍話X 第十八夜」6:48-
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