夢のはなし 真っ白な世界

※昨夜見た夢のはなしです


娘のお気に入りのぬいぐるみを置いて、家族で出かけようとしたら、ぬいぐるみが自分で動いてベランダから手を振っているのが見えた。あれ?と見ていたら、その手を振る勢いでぬいぐるみはベランダから落ちてしまった。
娘と私は大慌てで拾い上げた。家に戻り「もうお見送りしなくていいよ、危ないからね」とぬいぐるみに伝えて、丁寧に寝かしつけをして、また家を出ることにした。

そうしている間に、夫と息子はどんどん進んでしまい、道の先に小さく見えている。二人は待ってくれない、早く追いつかないとはぐれてしまう。分かっているのに、私は玄関先にある植木鉢に大量に発生した芋虫にびっくりして、また足を止めてしまった。除去すればするほど、小さな芋虫を見つけてしまう。やってるそばからサナギになっていくものもあり、もう放っておくことにした。この植木鉢は私のものではなく友人のものなのだが、友人は虫が嫌いだから、せめて少しでも取ってあげようと思ったが、もう友人に任せよう、と割り切って出かけた。

娘が振り返りながら、早く早く!と急かす。夫と息子はもうとっくに見えない。まぁでも今日出かける方面に向かえばいいかと、私は呑気に歩いた。
娘は脇道の途中にあるプールに勝手に入り、背の低さからプールで溺れてしまった。すくに小学6年生くらいの男の子に助けられたのでよかったが、娘は懲りた様子でトボトボと道に戻ってきた。

早く行こう、あの道を右に曲がれば確か地下鉄の入り口がある。そう進んで右に曲がったら、そこからは真っ白な世界だった。上も下も右も左も、前も後ろもわからなくなる。「あぁそうだった、ここからはエリア6東だった」そう思い出した。行ったら戻れない、真っ白から抜け出せなくなるエリアの始まり。ここを進むとずっとその真っ白を味わうしかなく、生きることも死ぬこともなく永遠に彷徨い、風景のないあの世とはこういうものかと想像する。

このエリアは普通に過ごしている私たちの地球に突然いくつか現れた。正確に言えば「もうすぐエリア化します」とお知らせが出て、それから出現する。このせいで地域や世界は分断され、会えない人も増えた。あの植木鉢の友人も、そういえばもう会えない状態の離れた存在だったのかもしれないと今になって気づく。

この道を進もうと思ったけれど進めくなってしまった。あぁ半年前なら行けたのに。かつては進めた道だけど、今は進めなくなってしまった道。昨日から家族で出かけようとした場所はこの先であったのだが、そうか行けなくなってしまったのかと、私は残念な気持ちであった。ちなみにこのエリアというものが存在してしまうことに対してはもう抗うこともできないため、もう受け入れざるを得ないという感覚である。


果たして夫と息子はどこに行ったのだろうか?見える地域や道としては、いわば私が立っているこの地点は行き止まりである。だから同じ道を進んでいたのであればこの周辺で出会えるはずなのに、見当たらない。
まさかこの先に進んだ?いやそうだとしたらもう二度と会えない。
進めないことがわかっていて途中で曲がった?それはあり得る。しっかりした夫なら事前に調べていそうだ。私だけ呑気に一本道を進んでしまって困っている。

連絡を取ろうにも、スマホを忘れてきてしまった。

あぁもう二度と会えないかもしれない。動揺よりも、自分の犯したかもしれないミスに落胆する。

そこで夢は終わった。




以下、自分の感想と考察


私と娘は途中、道草を食いまくっていた。そのせいで夫と息子とはぐれてしまったし、もしかしたら二度と会えない状態にまで持っていってしまった。

ぬいぐるみが落ちて拾うことも、植木鉢の芋虫除去も、プールにちょっと寄り道することも、一つ一つはたいしたことがない。たいしたことがないけれど理由をつけては「やってあげなきゃ」「いややらなきゃでしょう」と一生懸命になっていた。

だけどこの蓄積で家族と離れて、一気に不安になった。

私が余裕ぶっこいて道草を食うことができたのは、家族がいる安心感という土台があったからなんだと、今更分かった。(家族がいなかったら、不安で道草なんて食えない。家族がいなくなると分かっていたら、道草なんてせず、離れないで歩いた。)



実は私は家族と一緒にいることが特別好きなわけじゃない、マストでもない。なんなら私は私を生きたいのに、世話したり家事したり、時間を取られる厄介な存在だ…という意識もなくはなかった。

だけど今回のように、家族がいなくなる思いをして、私の中の安心感と土台が崩れることで、初めて「家族とは、私そのものを形成してくれていた」のだということに気がついた。

私にとって家族とは、好きとか大切とか尊いとかそういう存在ではなかった。家族はもはや私の一部になっているという感覚の方が近く、骨であり内臓であり皮膚のような、他人であるはずなのに私自身と途切れることのない存在だったのだと、今更認識できてしまった。いなくなっても生きられるけれど、いないと生きにくさが大幅に増す存在。骨や内臓や皮膚などと同様に。

ぬいぐるみを拾う時、大声で「先に行かないで、大事なことだからちょっと待ってて」と言って、止まっていたらよかった。
植木鉢の芋虫を友人のために除去することで家族と離れるリスクというのを、きちんと天秤にかけて、これは本当に私がやるべきことなのか?と考えるべきだった。
プールで寄り道する娘を、夫と息子と一緒に見守れたらよかった。

私にとって家族は一緒にいたい人たちというよりも、一緒にいないと私が崩れてしまう、運命共同体だという存在の強さを感じる認識ができた。


目が覚めて、口元によだれを垂らした跡がある娘と、寝癖のすごい息子と、朝から掃除をしている夫に、感謝の気持ちが湧いてきた。

これからもはぐれないようにしよう。家族が好きだからじゃない、誰よりも私が困るから。

そんなすごく自己中心的な感覚しか持てないジャイアンみたいな私だけど、誰かを思う気持ちよりも自分を思う気持ちの強さの延長で他人を大切にするって、私の場合は説得力があるし、実行力が伴いそうである。

家族に関わらず他人も、私の延長のように大切にできる人と繋がっていこう。手を差し伸べよう。それ以外はみんな自分で生きたらいい。そうじゃないものは仕事として対価をもらってやるとかにしよう。

あぁそうしよう。

そうして今日は実家に帰る。元々の家族に会いに行く。おもしろい。そこでは何を感じるだろうか。

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