すごくない自分がすごい
ありふれた普段通りの日常には、気合が入らない。
週に一回、平日休みがある。
予定がなければスッピンにボサ髪で、ブラジャーではなくユニクロのブラトップで過ごし、漫画アプリで漫画を読んで時間を溶かす。
洗濯も畳まないし、皿も洗わない。
洗面所に落ちた髪の毛が3本ほど寄り合うとあまり動かなくなるので、そこを通るたびに「風が吹いただけでいなくなりそうなのに、今日も変わらない景色だな」と思う。拾わない。
昼ごはんはお腹が満たされたらいいのでレンジで温める何かかカップラーメンだし、申し訳程度の野菜摂取としてのきゅうりは切らずに丸かじりする。
せっかくの休みも、そうやってだらしなく過ごすことも多い。疲れていても、いなくても。
そんな過ごし方をした日の自分は嫌いではないけれど、そんなに好きじゃない。そしてたまにうんざりもする。
仕事もなく
誰とも会わず、
なんの変わったことも
生産性のある創造もしない
変わり映えのない、日本各地そこらじゅうに存在する、よくある日常である。
こんな毎日でいいのか。
私の「生きる」はこれでいいのか。
私の「生活」は「人生」は、こんなもんなのか?と思うことがあるが、答えは毎回同じ。
そうだ。
こんなもんだ。
神からのお告げが聞こえることもなく、ビッグスターに会うことも、見初められることも、世間に注目されることもない。
だけど私はこのありふれた日々のおかげで、ありふれた普通の人として過ごすことでき、自分は特別なものは持っていない普通の自分だと思うことができ、肩の力が抜ける。
素の自分
土台の自分
いつもの自分
ありのままの自分
そう言えば聞こえが良いが、それは
すんごく普通な自分
自分のスタンダード
でもあり、それは時に
最底辺な自分
でもあることが、よくわかってきた。
私はすごい人になりたかった。
だからこれまで心をすり減らし、人の気を読み、時間を捧げて、すごい人として褒められたり頼られたかった。
そのためには本来の自分からだいぶ背伸びをして「頑張らねばならない」と思っていた。
いつだって伸び代を伸ばしてきた。
そうしているうちに私自身のセルフイメージは、理想の状態そのものになっていた。
理想の頑張っている状態からはみ出てしまうと「これはだめだ!」と自分を律しようとした。そうして「これじゃだめだよね?」と他人に確認をし、それに同意するしっかりしたすごい人と付き合うようになっていた。時々出会うだめな人には「そんなのはだめだよ」と怒って、自分もそっちに引きずられないように必死だったようにも思う。
だけど本当に私は、すごくない。
すごいどころか、どうしようもない。
どうしようもない自分の一面は知っていたけれど、それは本来のものであり、気を抜いたイレギュラーなものだと思っていた。だめな自分がデフォルトのだなんて、そんな現実は受け入れられなかった。
だけどこの夏、少し状況が変わった。
様々な人と連絡を取ったり仕事で付き合ってきたが、家族と、ごく限られた近隣住民だけとしか関わることがなかった。
これまでの私、いわば頑張っているキラキラした状態の自分として出会い、心を打ち明けた人たちとは、急に疎遠になった。
この状況は寂しかったけれど、違和感はなかった。あるべき状態として受け入れられた。
そうして私はこの夏、どうしようもない自分と、ずーっと二人きりで過ごしてみた。
何かあれば私は私に問いかけたし、私を感じるようにした。私の行動を誰にいうでもなく、私が見届けた。
そうして暮らしてみることでわかったのは、このどうしようもない私というのは、どうしようもないけれど、一概にだめなわけではないことも理解できた。
かつての私は、どうしようもない私のままでは、社会的に生きていけないと思っていた。しっかりしないといけない。マナーを守らなければならない。人を傷つけてはいけない。助けなければならない。そうして頑張ってちゃんとした、しっかりした、すごい人を成してきた。
だけど実際、私は、生きている。
あんなにだらだらしていたのに仕事も見つかったし、やりたいときにやりたいこともできるし、概ね健康である。
私を愛してくれる子供もいるし、どうしようもないなぁという眼差しを向けながらも大事にしてくれる夫もいる。
私のやりたいことを心から応援して協力してくれる人もいるし、定期的に通う場所もある。
私は頑張らず、どうしようもないままの自分でいても、欲しいものを手にしていることに気付いた。
ありふれた日常は、私から気合をなくしてくれる。
私は自分のどうしようもない最底辺を感じることで、頑張らなくてもいいのだとリラックスができる。
そうしたら急にすごい人への執着も消え、欲しかったすごい力も人脈も名声も興味がなくなった。
私は頑張れば、すごい自分になれる。
すごい自分になれる「力は」持っている。
すごいことは、いつだってできる。
すごい人は、いつだってなれる。
私は根っからのすごい人じゃない。
だけど頑張ることですごい状態へとメタモルフォーゼすることができる。
なんかそれで十分かな、と思えてきた。
すごくなりたい時に、すごくなろう。
日常的にすごかったら、疲れちゃう。
だから日常は、すごくなくていい。
どうしようもなくていい。