#09|子ども伸び伸び田舎暮らし
2003年4月、
基本的に楽天的な私は、まぁどうにかなるさの精神で、
Iターンして当時80代の祖母を筆頭に、60代の義理の両親、子供は2人だったので、総計7人「4世代同居」の大家族しかも農家のヨメになった。
けれども、義理の父は定年まで東京の誰もが知る1部上場企業に定年まで勤めた兼業農家で、義理の母も民俗学や俳句を嗜む只者ではない人で、思慮深かった。とりわけ農家の嫁として苦労して来た義母は、私たちに格別の配慮をしてくれた。
群馬に来るなり、大学時代の友人の紹介で地元企業の仕事を貰えた私。
長女は幼稚園に、1歳6ヶ月の長男はば〜ちゃん(義母)が毎日畑に連れ出し、おやつは自家製のトマト、一輪車に載せて昼寝をさせてくれた。大好きだった「ずっとおんも(外)」の生活&犬も拾ってきた猫もいて、長男は明らかに幸せだった。
ちょうど地方創生補助金で群馬の至る所に温泉施設ができた時期で、
長男を連れて行くと「女の子みたい♪」と大人気だと、ば〜ちゃんもご機嫌。
食事は毎日米1升、炊き出しみたいな量を作る毎日だったけれど、ば〜ちゃんは一切台所に入らずその分を旦那が担当。旦那が私より料理が得意だったのと、基本野菜料理を出していれば食べ物にはうるさくない人たちで、皆忙しかったので、全員揃うのはほぼ夕飯のみ。まだ私も若かったのでなんとかやりくり。
入った保育園は「ヨコミネ式」!
その後も地元の建築設計事務所の仕事もさせて貰ったり、東京のギャラリーの仕事もメール経由で続いていたので、次の年には長男を保育園に入れてもらうことになった。村にひとつしかないこの保育園がのちに「ヨコミネ式教育法」を取り入れることになる熱心な経営者の保育園だったので、長男は裸足で園庭を駆け回り、逆立ち歩きや側転、とび箱は10〜12段を飛ぶスーパーキッズに。園の子供は皆街中でもこれをやりだすので、一目でその保育園の子供だと分かるほどだった。
運動会で和太鼓を披露するのも伝統になっており、身体を動かすメニューの多い保育園。卒園式も後半は全員体操着に着替えて、「〇〇雑技団かっ!?」と思うような華麗なお披露目会。ほぼ全員、逆立ち歩きや側転が出来、見上げるようなとび箱もスイスイくるくる跳び回る。みんなキラキラ、胸を張って小学校に巣立って行きました。
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