<存在>論、あるいはbe動詞について
1. はじめに
僕が好んで読んでいるnoter(こう言うのか...?)の方が久しぶりに更新された。
とむさんだ。とむさんの書く文章や内容は、非常に面白く、僕は勝手にチェックしていて、最近更新が止まっていることを悲しんでいた。(ストーカーチックだ。)恐らく僕ととむさんは非常に興味関心が似ていると思われるので、是非一度直接お会いしてお話したいと思っているが(ストーカーチックだ。)、とにかく更新されたのだ。いや、興味関心だけではない。とむさんはどうやら理系の院生で、僕は文系の学部生なのだが、同じく来年卒業というところも同じだ。だから勝手に親近感も感じている。(ストーカーチックだ。)上記の記事で、とむさんは非常に興味深いことを言う。人間というのは、「存在の耐えられない軽さ」(クンデラ)と「存在の耐えられない重さ」が両方備わっていて、その狭間で悩むものではないか、という問いだ。今回の僕の記事は、これを引き継ぐ形で書こうと思う。そして、このテーマは僕の卒論のテーマにも近いので、覚書という形でも機能していくだろう。
2. 第1文型と第2文型のbe動詞
まず、端的に、とむさんは「存在の耐えられない軽さ/重さ」を上記の記事でこう述べる。
僕を含めた一部の人々の悩みの原因として,存在の「重さ」という部分があると思います.例えば,社会において「自分が他の誰でもない自分であるという感覚=アイデンティティ」を消失し,自身の存在理由が希薄になったとき,その人は「存在の耐えられない軽さ」に苦しむことになります.「自分の代わりはいくらでもいる」「自分は必要とされていない」というような悩みを抱える人は現代にも多いでしょう.
一方で,非常に大変な仕事や役割を与えられ,その重圧に苦しんでしまうような場合もあるでしょう.「自分がやらないと大変なことになる」などと考えて自身の「存在の耐えきれない重さ」に押しつぶされてしまうような人も多くいます.
なるほど、確かにその通りだ。存在には二種類ある。一方には代替可能な「じぶん」の軽さ、そしてもう一方には代替不可能な「じぶん」の重さだ。僕はこれを見てあることを思い出した。(そういえば全く関係ないが、僕はいつも何かを見て何かを思い出している。)それはbe動詞、そしてハイデガーだ。be動詞の使われ方には二種類ある。英語にある文型のうち、第1文型で使用されるものと第2文型で使用されるbe動詞のことだ。少し敷衍し、例文を掲載する。
第1文型:I am at the park. 「その公園にいます。」
第2文型:I am a student. 「私は生徒です。」
読んでいる人に「馬鹿にするなよ!」と思われそうなほど簡単な例文を掲載したが、明確に使われ方が違うことをわかって頂けただろうか。第1文型で使われるbe動詞は主に「いる」を表す。単純にそこにいること、あること、を指し示すために使用されるものだ。それに対して第2文型で使用されるbe動詞は、「〜である」、すなわちイコールの記号(=)の意味しか持ち得ない。主語とbe動詞の後ろにくる補語を繋ぐものだ。
さて、これをさらに形而上学的に考えていたのが、20世紀最大の哲学者、ハイデガーだ。ハイデガー『存在と時間』によれば、存在概念の中に、存在の2種類の様態が含まれている。中世存在論(スコラ哲学)の用語を使用すれば、それは「本質存在essentia」と「事実存在existentia」と呼べる。木田元が簡にして要を得る形で指摘したように、本質存在とは日本語で言う「xである」という意味にて捉えられた存在であり、事実存在とは日本語で言う「xがある」という意味にて捉えられた存在だ。(余談だが、プラトン以降の西洋哲学は事実存在を本質存在へと還元する試みであったと言えるかもしれない。)
このハイデガーが言ったことは、まごうことなく、先程のbe動詞の二つの使われ方に対応できる。「事実存在」とは第1文型の、「いる・ある」に対応し、「本質存在」とは、第2文型の、「〜である」に対応している。
そして僕は、これをさらに、「存在の耐えられない軽さ/重さ」問題と接続させたい。存在は耐えられないほど重い、こう述べた時、それは誰によっても何によっても代替不可能であるからだ。それは端的に言えば、自身がそこに「いる・ある」という事実によってのみ担保されている状況だからではないか。すなわち、「存在の耐えられない重さ」とは第1文型のbe動詞的であり、あるいは事実存在的なのではないか。あるいは、存在は耐えられないほど軽い、そう述べた時、我々は先にも述べたように限りないほどの代替可能性を感じる。これは第2文型のbe動詞的であり、あるいは本質存在的なのではないか。なぜか。これはbe動詞の第2文型の文を確認すればわかると思われるが、先に挙げた例文、「I am a student.」の補語「a student」は任意のxでしかない。ここに入るのは「a teacher」や「an engineer」、「a prime minister」でも、とにかくなんでも良いのだ。この「何でも良い」、私は(少なくとも言語上において)何にでもなれるという存在の概念そのものこそ、僕の言いたい代替可能性だ。これは非常に軽い。この2種類の存在を抱え込む存在こそ、<人間>なのだ、と一先ずとむさんの議論を延長させて言えるかもしれない。
3. 軽さを軽さのまま、重さを重さのまま享受していくこと
では、この<人間>の抱える矛盾に対してどうしていけばいいのか。僕はそのヒントは、この章のタイトルにもあるように「軽さを軽さのまま、重さを重さのまま享受していくこと」しかないように思える。スマートに、あるいはセクシーにこなしていくこと、それだけなのではないだろうか。ニューアカのボス、浅田彰は『構造と力』の中で以下のように述べる。
うずくまる者はパラドクスをむりやり階型構造の中に押し込める。飛びこす者はバラドクスをそのつど先送りしていく。舞踏する者だけが、パラドクスを、つまりはふたつのレベルに足をかけているという事実を、そのまま笑いとともに肯定することを知っているのだ。
これは、つまるところ、ユーモアの教えでもある。いずれかのレベルにはりつくとき、ひとはマジメになる。それをやめて走り出すといっても、ただちに笑いが訪れるわけではない。ふたつのレベルが交替しつつ繰りひろげる永遠のイタチごっこの中にとらわれている限り、ひとはそのつどのレベル間
の落差を、つまりは、そのつど先へ先へ遠ざかっていく理想と現実との距離を、肩をすくめながら背に負うほかはないのだ。これこそ近代資本主義のィロニーというものだろう。そのような交替運動からさらに自由になって、ふたつのレベルに同時に足をかけているという事実をそのまま肯定すること。
デリダ流に言えば、ふたつのレベルの間の決定不能性を、それがもたらすゆらぎを、笑いとともに享受すること。そのことこそがユーモアの条件なのである。
(p.228より引用)
僕は、「うずくまる者」にも、「飛びこす者」にもならない。ただ、舞踏していくのみだ。このパラドキシカルな存在を抱えながら舞踏していく。「存在の耐えられない軽さ/重さ」を抱えながら。