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「抑圧された日常」の回帰 ―恋愛リアリティ・ショー、あるいはソアリン:ファンタスティック・フライトについて―

1. はじめに

 近年、非常に奇妙な形式の(と筆者は思っている)テレビ番組が、人気を博している。その形式の名は「リアリティー・ショー」である。これはまず、その名からして奇妙だ。リアリティー(=現実)は、本来はショー(=見せるもの)とは相入れない概念だ。リアリティーは、常日頃より、我々の生活と共にあるはずだからである。しかし、まるで生物学で異質同体を指すキメラのように、「リアリティー・ショー」は誕生し、そしてそれは人口に膾炙している。 
 例えば、我々は、「リアリティー・ショー」と聞けば、昨今起きた非常に痛ましい、あるニュースを思い浮かべるだろう。2020年5月23日、フジテレビの人気恋愛リアリティー・ショー番組、「テラスハウス」 に出演中であった木村花氏が、22歳という若さで自ら命を絶った[1]。 原因はネット上における所謂「アンチ」と呼ばれる人々のSNSを通した直接的な誹謗中傷であるとされている[2]。なぜ「アンチ」は彼女に対して誹謗中傷を行ったのであろうか。「テラスハウス」は、共同生活する男女6人の人間関係を密着するものであるが、その共同生活中、男性出演者の1人が、彼女の大切な試合用のコスチュームを誤って洗濯し、縮ませてしまった。そのことに彼女が激昂し、その男性がかぶってい た帽子などをはね飛ばすなどした。このような状況に対し、誹謗中傷が殺到した。中には大変辛辣なものもあり、これが精神的苦痛となり、自殺に繋がったのであるとされている。
 このような事件は、大変痛ましくあるが、しかし、同時に、大変奇妙ではないだろうか。誹謗中傷を行った「アンチ」は、「テラスハウス」の内容は「リアル」であり、だからこそ、我々にはそれを責める資格があると考えたのだろう。そこには、「テラスハウス」が、「作られたもの(=ショー)」であるのかもしれないという自己反省性が「アンチ」の中には働かなかったのだろうと考えられる。勿論、番組作成の詳細はブラックボックスであり、シナリオの有無はわからない。
 しかし、再び繰り返すが、そのような、リアルとも、作り物とも解釈できるようなコンテンツに、今、人気があるという事実は確かだろう。そこで、本論で問いたいのは、近年、コンテンツ空間がどのように変容し、その背後には何があるのかということである。テラスハウス問題の、根源にあたる部分を考察したい。

2-1. もう一つの変容

 さて、本論は、テレビ空間の変容に接近することよりも、より、その特徴が顕著に現れているコンテンツについてまずは敷衍し、論じていきたい。そうすることで、より今日のテレビ空間の変容が明確に理解可能であるからだ。そのコンテンツ―あるいは場所と言っても良いかもしれないが―こそ、「東京ディズニーリゾート(TDR)」である。東京ディズニーリゾートの主なターゲット層は、「テラスハウス」と同様に、若年層であるため、この二つが抽象的な次元で同様の変化を遂げ、同じ状況にあってもおかしくはない。そして、実際そうなのである。それを確認する前に、まずは、東京ディズニーリゾートがどのような大前提があるのかということを確認する。

2-2. 東京ディズニーリゾートの大前提とは何か

 東京ディズニーリゾートは―もはや説明は不要ではあると思われるが―千葉県浦安市に、1983年4月15日に開園したテーマパーク、東京ディズニーランドを皮切りに、その周辺の多くの施設(レストランやホテル、シネマコンプレックス、ショッピングモールなど)を含めた「テーマパーク化する都市」である。このディズニーリゾートという場所について、まずはその基盤をBaudrillard[1981=1984]の「シミュレーション」という概念を補助線に論じたい。Baudrillardはまず、オリジナル(本物)に対するコピー(偽物)のあり方を、「シミュラークル」と総称し、ルネサンス以降のヨーロッパ社会におけるシミュラークルを以下のように、三段階に分けた。

①模造
 ルネサンス期〜産業革命期までのシミュラークルは「模造」である。この時代においては、安価に模造できる漆喰という素材を取り入れることにより、封建的・宗教的身分秩序が厳格であった時代にはあり得なかった衣服や調度品、絵画や彫刻などの模造品が出現する。

②生産
 上記の①「模造」は、複製とは言え、なお手工業的複製である。しかし、産業革命を経て資本主義社会に突入すると、機械制大工業の元、複製品が大量、そして安価に「生産」されるようになる[3]。

③シミュレーション
 ②「生産」の時代は、それでもなお、「オリジナル」、「本物」の基準点が存在し、その上でコピー商品を享受していた。しかし、1970年代後半〜1980年代にかけて、我々の社会はメディアと接続する。このメディア社会においては、我々はメディアを道具として、それを操っているのではない。そうではなく、我々自身がメディアの世界の住人と化しているのだ。例えば、9.11テロや、東日本大震災についても、当該地域に在していない人々は、メディアを通じてそれを知り、メディアを通じて考えるようになっている。我々はもはやメディアを抜きにして思考することが不可能になっており、そのような意味でメディア化している社会にいるといえる。このようなメディア化社会においては、②「生産」の時代には存在した「オリジナル」、「本物」の基準点は次第に消滅し、全てはメディアの中で複製された情報の中の出来事となっていく。このような、メディアと密接に関わるようになった世界の内側にあってオリジナルなきコピー状態になった状況のことをBaudrillardは「シミュレーション」と呼んだ。 

 さて、以上のような「シミュラークル」の変容において、目下の論点であった東京ディズニーリゾートは、紛うことなく「シミュレーション」である、ということができるだろう。その具体例として、遠藤[2020]は、実際に東京ディズニーリゾートに行き、「ミッキーマウスは、どこにも存在しない!」と叫んでみても、何の意味もない、ということを挙げている。来園者(=TDRでは「ゲスト」と呼ぶ)は、そのファンタジーの世界を、“あえて「本物」と見なしている”のであって、「本物/偽物」、「オリジナル/コピー」の区別には何の興味もないのである。このようなシニカルなコミットメントを、大澤[2009]は「アイロニカルな没入」と呼んだが、正しく東京ディズニーリゾートで求められているのは「アイロニカルな没入」的態度であると言える。
 このような、徹底したシミュレーションをゲストに楽しませるように、東京ディズニーリゾートを構成する二つのテーマパーク、すなわち東京ディズニーランド(TDL)と、東京ディズニーシー(TDS)では様々な工夫がなされている。以下、それを指摘している多様な論者の意見を紹介したい。 

2-3. 内閉性と、鳥瞰の欠如 

 まず、これは全世界に存在しているディズニーのテーマパークに共通していることだが、多くの論者が指摘しているように(例えばMarin[1973=1983]や能登路[1990]、大澤[2008]など)、その空間の徹底的な内閉性、閉鎖性である。園内では、様々な障害物によって外の景色を見ることができず、全体から周囲が切り離された世界を構成している。そのため、ゲストは、(例えばTDR)にいる際には、ここが「千葉県浦安市舞浜」にいることを意識しないだろう。なぜなら、無論先に述べたような外観の不可視性はもちろん、他にも、パーク内の各エリアは、「ファンタジーランド(=童話の世界)」や、「ウエスタンランド(=アメリカ西部開拓時代)」、「アメリカンウォーターフロント(=20世紀初頭のアメリカの港町、田舎町)」、「トゥモローランド(=未来都市)」等々、“現実”に即したエリアが無いのだ。そのどれもが、“現実”から遠く離れたテーマに沿って成り立っている。これは、ゲストの目に外部の、ディズニーの世界観にそぐわない異和的・現実的な外部物が視界に入るのを避け、ゲストが「シミュレーション」に没入できるようになっているのだ。
 さらに吉見[1992]が指摘するのは、ディズニーランド以外の遊園地と、ディズニーランドにおける、俯瞰装置の有無も特徴的であるという。吉見によれば、そもそも19世紀以来の遊園地とは博覧会の強い影響下で誕生したものであり、そしてそれは俯瞰装置が不可欠な要素であったと指摘している。塔やパノラマ、気球、観覧車という19世紀に大衆化された俯瞰装置は、「特権的な中心から周囲の世界を俯瞰して、己のまなざしのもとに組織していこうとする意志」があるという。しかし、ディズニーパークには徹底した閉鎖性を追求しているため、俯瞰装置にあたるものは存在していない。 

2-4. 「ソアリン」の特異性 

 以上に見てきたような、徹底した「シミュレーション」に没入できるような仕掛けが存在しているにも関わらず、2019年に東京ディズニーシーに完成した、最も新しいアトラクションの一つである、「ソアリン:ファンタステック・フライト」においては、先に述べたディズニーパークのルールが守られていない。どのようにだろうか。このアトラクションは、フライトシミュレーター型アトラクションで、乗車する者は、世界6大陸の様々な場所をハングライダーで飛行する体験ができるものだ[4]。 
 このアトラクションは、アトラクションを実際に体験するまでのバックグラウンドストーリーは、十分に非現実的だ。16世紀に設立した架空の団体、「S.E.A」に所属する冒険家カメリア・ファルコのスピリットと不思議な出会いをしたゲストは、彼女が仲間とともに開発した空を飛ぶ乗り物「ドリームフライヤー」に乗り、空の旅に出るという設定でそのアトラクションに乗車する。しかし、そこでゲストが観賞する映像は、どれも、今日(だと思われる)の世界なのだ。そこで見られる映像は、ディズニー特有の、おとぎの国の上空でも無ければ、未来の国の上空では無い。観光客の姿が見える万里の長城や、タージ・マハルの上空、そして東京タワーやレインボーブリッジを見つつ、東京の夜空を飛ぶのだ。
 そしてさらに、最後にその「ドリームフライヤー」は乗車場所に帰るべく、驚くべきことに、東京ディズニーシーの上空を飛行する。先の章でディズニーパークの原則では、①テーマパーク内の“現実”の排除、そして②俯瞰装置の欠如をどちらも破っている。具体的には、①は先に言うように昨今の各国遺産の映像が、②はそのアトラクション性から、その原則を守っていない(ように)見える。非日常的なものが日常的なものに単純に置き変わるのではなく、その非日常的なものを突き破るようにして、日常的なものが顕在化しているのだ。言い換えれば、このアトラクションはゲストに一定の人気を保っていることから、ゲストは、「仮想空間の中の日常志向」を抱いているのではないかと、一先ず、このようにして結論づけることが可能だ。 

3-1. 恋愛ドラマの変容 

 さて、先の章で、東京ディズニーリゾートの変容を「非日常的なものを突き破るようにして、日常的なものが顕在化している」と結論づけた。そして、それはゲスト(=受け手)の「仮想空間の中の日常志向」であるとした。ここで、大分敷衍したが、本来の主題であった「リアリティー・ショー」の人気の理由も、あらかた説明可能だ。以下、説明していくが、今回は、論旨を広げすぎないようにするため、「テラスハウス」を含む「恋愛リアリティ・ショー」と、その前身の「恋愛ドラマ」に限って論を進めていくことを許されたい。まずは恋愛ドラマの遍歴と、恋愛リアリティ・ショーへの移行を見ていく。 

3-2. 1980年代後半〜1990年代前半の恋愛ドラマ黄金期 

 まずは―もちろんこれ以前から恋愛ドラマは存在していたが―恋愛ドラマブームの絶頂期で、人々が最も恋愛ドラマの影響を受けた時期であると考えられる1980年代後半〜1990年代前半の恋愛ドラマについて見ていく。この時期のドラマの特性は、<無害な共同性>(宮台他[2007])という言葉に収斂される。<無害な共同性>とは、男女複数の仲間の中で、三角関係、四角関係、五角関係と恋愛関係が複雑化してもその仲間(共同性)が離れることなく、崩れないまま物語が展開されていく状況を指し示す言葉であるが、この原因として、この当時の社会の流動化により生じた人間関係の複雑化をコンテンツ空間では忘却するために、生まれた特徴であり、多分に「非現実的」な特徴であると言える。 例えばこの<無害な共同性>を代表するこの時期の人気ドラマとして、TBS作成の「男女7人物語」(1986年)や、フジテレビ作成の「東京ラブストーリー」(1991年)が挙げられる。また、女性の社会進出に裏付けられた、女性視点や女性の理想の恋愛の形を映した展開も特徴的だ。働く女性の増加とそれに伴う恋愛をする余裕がなくなったことが、過度に演出された所謂「トレンディドラマ」の火付けに一役買ったものと思われる。またフジテレビ作成の「101回目のプロポーズ」(1991年)も、この時期の恋愛ドラマとしては大変有名だ。先に述べた「東京ラブストーリー」との共通点は、東京という理想の土地で苦労しながらも恋愛を成就させるというストーリー展開である。このストーリーにおいては、どんなことがあってもハッピーエンドで終わることが常態である。 

3-3. その後の恋愛ドラマの低迷、そして「リアリティ・ショー」の誕生 

 先の章に引き続いて、1990年代後半〜2000年代前半の恋愛ドラマをだが、この時期になると、フジテレビ作成の「ロングバケーション」(1996年)や、TBS作成の「ビューティフルライフ」(2000年)など、黄金期の困難を乗り越え、ハッピーエンドというストーリー展開ではなく、主人公やヒロインに災難が生じたり、病気や死が関わってくるなど、マイナス要素が関わってくるようになる。マイナスなことが生じ、それでも耐えながら愛を育んでいくという、「苦難の神議論」(Weber)的純愛ドラマがそこでは描かれている。
 しかし、2000年代後半になると、軒並み恋愛ドラマは高視聴率を取ることが出来ず、不調になる。そこを取って代わるように登場したのが、「リアリティ・ショー」である。もう説明は不要のように思われるが、この番組形態は、その名の通り、実際の生活の様子から男女が恋愛に発展していく様子をリアルに映し出した番組である。この日本における先駆けが1999年から2009年まで地上波で放送された「あいのり」だ。これに続くようにして「テラスハウス」等の恋愛リアリティー・ショーが放送されるようになっていく。また、この恋愛リアリティー・ショー特徴として①放送はインターネットテレビでの放送、②出演者は素人であること、が挙げられる。①により、ターゲットは若年層向けとなり、②により、「演出されている感」が無くなり、視聴者は演者に親近感を抱くようになる。そして―これが冒頭の事件を引き起こした原因であるが―SNS上で演者と繋がることができるようになっているのも人々が恋愛リアリティー・ショーに魅力を感じる原因の一つだ。 

3-4. パレオTV/ネオTV/「リアルTV」 

 以上で非常に端的に「恋愛」をめぐるテレビ空間の変容を振り返ったが、本章では、Eco. U[1985]の議論を参照に、あるいは拡張し、これらのテレビ空間の変遷に概念的な示唆を与えたい。Ecoは、テレビ空間をまず二種類に分類している。それが「パレオTV」と「ネオTV」である。その名の通り、パレオTVの方が古く、ネオTVの方が後から、登場したが、ネオTVがパレオTVを駆逐したということは無く、どちらも共存する形で今日残っているという。さて、そして個別的な説明だが、Ecoは「ネオTVの主要な特徴は、外部世界について語ることがますます少なくなっているということである(パレオTVはそうしていた、あるいはそうしている振りをしていた)」と端的に定義している。Ecoはこの論文内では具体例を挙げていないが、ニュースやドキュメンタリーなど、外部世界を語るTVを「パレオTV」と解釈し、ドラマやバラエティ番組などを「ネオTV」と解釈することは可能ではないか。
 これによると、先に述べてきた恋愛ドラマは、その極めて理想的な恋愛を描いていた「トレンディドラマ」や、「苦難の神議論」的純愛ドラマは、全て外部世界(=リアリティあるもの)を描いている訳では無いため、「ネオTV」であると言える。
 しかし、この二つの枠組み内に、リアリティ・ショーを入れることが不可能だ。リアリティ・ショーは、一見外部世界のように描かれているが、実際は、一定のルールや契約に基づいて、運営されている。「パレオTV」が主流の時代では、一種の非現実的な恋愛が、テレビというメディアを媒介に伝えられた。しかし、今では、その恋愛はより「リアルに」、「現実的」な形で消費されている。そこで、この、新しいテレビ空間を(皮肉を込めて)「リアルTV」と名付けたい。この3類型が、テレビ空間には存在していると考えられる。 

4-1. 「現実/仮想」「日常/非日常」 のマトリクス 

 さて、以上のような2つの空間、ディズニーリゾートと、テレビ空間で、共通の、すなわち、「非日常的なものを突き破るようにして、日常的なものが顕在化している」現象があるということを見てきた。そこで、以上の論点を、一方に「現実(=リアル)/仮想(=ヴァーチャル)」という軸、もう一方に「日常/非日常」という軸を置いてマトリクス化したい。すると以下のような図1のようになる。 

図1

 四象限の内、現実で且つ日常的なAで象限Aは、普段の日常生活上の諸関係だ。現実で非日常空間を描き出す象限Bは、主に「パレオTV」が担ってきた。これはニュースやドキュメンタリー番組に代表される。仮想且つ非日常的なものを指す象限Cは、先ほどから論じてきた恋愛ドラマ黄金期の理想的恋愛を描く「トレンディドラマ」や、主人公・ヒロインの悲哀物語を描く「ネオTV」的テレビ空間だ。ここには、先の章で論じたような、変容する前の東京ディズニーリゾートを入れても良いかもしれない。
 そして、ここが最も矛盾しているように思えるが、仮想且つ日常的なものを描く象限Dだ。目下の話題であった恋愛リアリティーショーこそ、この象限Dに入るのではないかと思われる。恋愛リアリティー・ショーの出演者は、先ほど、素人が出演することが多いと述べた。だから、我々に親近感が湧くのだと。そして、彼らの恋愛の多くは、トラブルや、関係の崩壊が起きうる。ここには1980年代後半〜1990年代のトレンディドラマに働いた<無害な共同性>の原理はもはや働かないのだ。(もちろんそれは「リアリティ」だからだ。)しかし、同時に、それはどこまでリアリティを出しても、「ショー」にしかならない。それは、住む場所も、期間も、メンバーも番組作成者によって企画された、「舞台」でしかない、仮想なのである。 また、ここには、ディズニーパークのルール(=徹底した非日常性)を破ってまで誕生したアトラクション、「ソアリン:ファンタステック・フライト」も入れることができるだろう。

4-2. 2種類の「アイロニカルな没入」
―「虚構の時代」から「不可能性の時代」へ― 

 さて、先に述べたコンテンツ空間の象限C→Dの変化であるが、これは大澤[2008]によるところの、「虚構の時代」→「不可能性の時代」の時代区分に一致している。どういうことか。大澤[2008]は見田[1995]が戦後という時代区分を「現実」と対地する語句を用いて3分割に分けた理論[5]を延長し改良を加えた。具体的には、戦後1945年から1970年までを「理想の時代」、1970年から1995年までを「虚構の時代」、1995年から現在までを「不可能性の時代」と名付けた。1945年〜1970年の「理想の時代」は、太平洋戦争後アメリカに占領された日本にとっての“アメリカ”という理想の社会や個人の状態がその時代のテーマであるという。高度経済成長に代表される「アメリカに追いつけ/追い越せ」という精神構造が、「理想の時代」を代表するエピソードとして代表さ れる。1945年〜1970年の「虚構の時代」は、その高度経済成長が、1974年の第三次中東戦争に起因するオイル・ショックにより終わった後の「現実を秩序づける反秩序の中心的なモードが虚構であるような時代」(大澤, 2008, p.68)であると定義している。そして大澤は、この「虚構の時代」を代表するものの1つに、東京ディズニーランドを挙げている。その「虚構の時代」は、1995年に起きた大事件―阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件―により、終焉を迎える。その後現在まで続く「不可能性の時代」は、現実を秩序づける反秩序が見えない・捉えることができない「不可能なもの」であるとしている[6]。
 さて、ここでは、今までのテレビ空間とディズニーリゾートに関わる部分として、「虚構の時代」と「不可能性の時代」に着目したい。また、それを考察するにあたって先に述べた、ある事象へのシニカルなコミットメントを指す「アイロニカルな没入」という概念を補助線に引きたい。図1のCの象限は、恋愛ドラマに代表されるネオTVと「ソアリン」以前のディズニーリゾートを例に挙げた。これらのまず前者の恋愛ドラマは先に、先に黄金期が1980年代後半〜1990年代前半と述べた。また、後者の東京ディズニーリゾートだが、舞浜に最初に完成した東京ディズニーランドは1983年に開園した。これはどちらも、「虚構の時代」に対応している。また、象限Dの恋愛リアリティ・ショーやソアリンは、時代区分が「不可能性の時代」に対応していることがわかるだろう。
 そして、これらのコンテンツを享受する際に必要なのは、「アイロニカルな没入」だ。しかし、これは共通ではない。どういうことか。「虚構の時代」における「アイロニカルな没入」は、欠如している“非日常的なるもの”を追うために要請されるものだ。しかし、一方で「不可能性の時代」における「アイロニカルな没入」は、欠如した“日常的なるもの”を楽しむための態度だ。しかし、ここで我々は再び問わなくてはいけない。それではなぜ、「虚構の時代」→「不可能性の時代」に沿って、求められるものが“非日常的なるもの”→“日常的なるもの”に変化したのだろうか。 

4-3. 抑圧された「日常」の回帰 

 その答えを答えるとすれば、それは端的に述べれば現在の「不可能性の時代」において、特に若年層においては、日常性やリアルな感覚が欠如しているということだろう。それが、Freudが指摘したように、抑圧され、回帰したものこそ、現代の恋愛リアリティ・ショーやソアリンに他ならない。そしてなぜ「不可能性の時代」において日常性やリアルな感覚が欠如しているのか、これは土井[2008]が、簡にして要を得る形で指摘した、現代の若年層に典型的な、「価値の多様化」・「相対化」によって生じる他者との衝突を神経質的に、避けようとする「ハリネズミのジレンマ」的コミュニケーションである「優しい関係」にそのヒントがないだろうか。 
 だからこそ、「リアリティ・ショー」を若年層の皆が熱望しているのだと、一先ず結論づけたい。

脚注

[1]産経ニュース, 「木村花さんの自宅に遺書「産んでくれてありがとう」 硫化水素発生させ自殺か 警視庁」, https://www.sankei.com/affairs/news/200525/afr2005250013-n1.html
[2]出典:産経ニュース, 「木村花さんの自宅に遺書「産んでくれてありがとう」 硫化水素発生させ自殺か 警視庁」, https://www.sankei.com/affairs/news/200525/afr2005250013-n1.html
[3]このような状況を、Benjamin[1936=1995]は、「オリジナルの消滅」=「アウラの消滅」と論じた。
[4]「ソアリン:ファンタステック・フライト」は大変な人気で、開園当日は何と350分待ちを記録した。その後も、人気アトラクションとなっている。 (出典:産経ニュース, 「新アトラクション「ソアリン」、いきなり350分待ち 東京ディズニーシー」, https://www.sankei.com/entertainments/news/190723/ent1907230008-n1.htm
[5]見田[1995]は1945年〜1960年を「理想の時代」、1960年〜1975年を「夢の時代」、1975年〜1990年を「虚構の時代」としている。
[6] 大澤は自身の用語を用いてこのような現象を「第三者の審級」の欠如であるとしている。

参考文献

Baudrillard, J 1983 Simulacra and Simulation, Semiotext(e)= 1984 竹原あき子, 『シミュラークルとシミュレーション』, 法政大学出版局 
Benjamin, W 1936. Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit=1995 浅井健二郎・久保哲司ほか 『近代の意味 ベンヤミン・コレクション1』, 筑摩書房
Eco, U 1985 TV:La transparence perdue, Grasset=2008 西兼志, 「失われた透明性」, 『窓あるいは鏡 ネオTV的日常生活批判』, 慶應大学義塾大学出版会
Marin, L, 1973 Dégénérescene Utopiquce: Disneyland, in Utopiquce Jeux d’ Espaces, Les Editions de Minuit=1983 内藤俊人 「ディズニーランドの記号論」, 『現代思想』11(2), 219-237 
大澤真幸 2008 『資本主義のパラドックス』, 筑摩書房
大澤真幸 2008 『不可能性の時代』, 岩波書店 
大澤真幸 2009 『補論 虚構時代の果て』, 筑摩書房
能登路雅子 1990 『ディズニーランドという聖地』, 岩波書店
吉見俊哉 1992 「シミュラークルの楽園―都市としてのディズニーランド」, 『零の修辞学』, Libro
宮台真司, 石原英樹, 大塚明子 2007 『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』, 筑摩書房
見田宗介 1995 『現代日本の感覚と思想』, 講談社
土井隆義 2008 『友だち地獄』, 筑摩書房
遠藤英樹 2020 「トランスナショナル・ディズニー : モノが歩く世界」, 『立命館文學』(666):1439-1423

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