ミラボー橋、橋と扉、あるいは恋について
1. はじめに
先日読んだ岩波書店から発刊されている『思想』2020年9月号に掲載されている大髙保二郎氏の「ピカソとアポリネールーー奇妙な友愛の果てに」を読んで、恥ずかしながら初めてアポリネールという詩人を僕は知った。そして彼の代表作とも言える「ミラボー橋」を読んだ。今回は、その作者アポリネールについて、あるいはこの詩について、考えたことを書こうと思う。
2. アポリネール、ある不幸な詩人
ギヨーム=アポリネールは1880年に生まれーだから今年で生誕140周年であるがー、彼はその生まれからして既に不運だ。母親のアンジェリックは東欧リトアニアをルーツとするポーランド貴族の末裔で、彼女の父ミッシェルがロシアからの独立運動に敗れてその妻と共に彼女の祖国イタリアへ亡命。この父が教皇庁の侍従となったローマで、アンジェリックはチロルの名家の出でシチリア王国の退役将校と内縁関係となる。二人の間に1880年8月26日、男児が誕生するが、戸籍上、父の名は明かされず、庶子として登記された。ギヨームもアポリネールも洗礼名で、母方の姓はコストロヴィツキーである。彼には両親から受け継いだ名前が無いということだ。さらにこの両親は浪費家らしく、「カジノ浸かりが人生のような生活ぶり」(大髙保, 2020)だったらしい。アポリネールが5歳の頃、父は家出、母のアンジェリックはアポリネールと彼の弟を連れてヨーロッパ各地を遍歴、その間、アポリネールは中高等教育を優れた成績で修了する。しかしむしろ図書館に入り浸っては文学を耽読し、語学に習熟していった。こうして1899年末、文無し同然でパリにたどり着く。
アポリネールはパリでピカソと出会い、相互に影響を受け、二人の友愛は深まっていった。パリから見れば異邦人の二人はとある出来事から、無実の罪を着せられることになる。これはすぐ釈放されるのだが、この事件が、あるいは異邦人であることが、彼の中で蟠りとして存在していたのだろう。第一次世界大戦が始まると同時に、軍に志願し、フランスへの帰化を申請したのだった。しかし、この軍への所属が彼の本当の不運の始まりだ。1916年3月17日、塹壕で読書中だったアポリネールに砲弾が炸裂、半年程開頭手術などを繰り返すが、体調は戻らず、スペイン風邪に感染し、1918年11月9日、38歳の若さで急逝したのである。
3. 「ミラボー橋」
そしてその彼が、パリで出会った恋人の画家マリー=ローランサンとの失恋を歌ったのがこの代表作、「ミラボー橋」という詩だ。ミラボー橋は、その名の通りフランス革命期の指導者ミラボーの名が付くセーヌ川を跨ぐ橋で、アポリネールが、マリーに会いに行くために毎日通った橋であったという。
以下、原文と訳文を掲載する。(訳文は堀口大學訳。)
Le pont Mirabeau
ミラボー橋
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
ミラボー橋の下をセーヌが流れ
Et nos amours
われらの恋が流れる
Faut-il qu'il m'en souvienne
わたしは思い出す
La joie venait toujours après la peine
悩みのあとには楽しみが来ると
Vienne la nuit sonne l'heure
日も暮れよ、鐘も鳴れ
Les jours s'en vont je demeure
月日は流れ、わたしは残る
Les mains dans les mains restons face à face
手に手をつなぎ顔と顔を向け合はうかうしていると
Tandis que sous Le pont de nos bras passe
われ等の腕の橋の下を
Des éternels regards l'onde si lasse
疲れたまなざしの無窮の時が流れる
Vienne la nuit sonne l'heure
日も暮れよ、鐘も鳴れ
Les jours s'en vont je demeure
月日は流れ、わたしは残る
L'amour s'en va comme cette eau courante
流れる水のように恋もまた死んでいく
L'amour s'en va
恋もまた死んでゆく
Comme la vie est lente
生命ばかりが長く
Et comme l'Espérance est violente
希望ばかりが大きい
Vienne la nuit sonne l'heure
日も暮れよ、鐘も鳴れ
Les jours s'en vont je demeure
月日は流れ、わたしは残る
Passent les jours et passent les semaines
日が去り、月がゆき
Ni temps passé
過ぎた時も
Ni les amours reviennent
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
Vienne la nuit sonne l'heure
日も暮れよ、鐘も鳴れ
Les jours s'en vont je demeure
月日は流れ、わたしは残る
川の流れ、時間の流れ、両者は”流れていく”という不可逆性において共通だ。先日まで名前も知らなかった、アポリネールという詩人の、一つの失恋を歌った詩に、これ程までも惹かれるのは何故だろうか。恋と川の親和性は日本にもある。百人一首77番目で崇徳院が詠んだ歌、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた滝のように急流が2つに分かれる。しかしまた1つになるように、あなたと離れていてもまたいつか再会したいと思います。)」などが代表だ。しかし、僕がこの詩に魅了されるのは、川のイメージの持つ文化的普遍性ではない。彼が恋人に会いにいくために渡っていた「橋」だ。「橋」とはなんだろうか。
4. ジンメル 「橋と扉」、そして、「ミラボー橋」
社会学の祖、社会学揺籃期の巨匠を二人挙げなさいと言われれば、間違いなくマックス=ウェーバーとエミール=デュルケムだろう。では、三人挙げなさいと言われれば、少し地味だけど、といって控え目に挙がるのがドイツの社会学者ゲオルク=ジンメルではないだろうか。(ジンメルファンの人、もし読んでいればごめんなさい。)彼は人間相互の関係形式に関する科学としての社会学である「形式社会学」の提訴者であることはことさら論うまでも無いが、 優れた哲学的エッセイを数多く残したことでも知られている。その中でも特に代表作である「橋と扉」(1909)を今回は紹介したい。 ジンメルはこのエッセイの中で、そのタイトル通り、人間社会における「橋」と「扉」における意味を考察している。まず、ジンメルにおけるこのエッセイは以下の部分に最も色濃く要約できる。
自然と違って人間にだけは、結びつけたり切り離したりする能力が与えられている。しかも一方がつねに他方の前提をなしているという独特の方法で、私たちはそれを行う。自然の事物があるがままに存在しているなかから、私たちがある二つのものを取り出し、それらを「たがいに分離した」ものと見なすとしよう。じつはそのとき、すでに私たちは両者を意識のなかで結びつけ、両者のあいだに介在しているものから両者をともに浮き立たせる、という操作を行っているのだ。そして逆もまた真なり。私たちが結びついていると感じられるものは、まずは私たちが何らかの仕方でたがいに分離したものだけだ。事物は、一緒になるためにはまず離れ離れにならなければならない。そもそもかつて別れていなかったようなもの、いや、なんらかの意味でいまもなお分かたれた状態にないようなものを結びつけるなどということは、実際上も論理上も無意味だろう。
『ジンメル・コレクション』(1999),「橋と扉」より引用
これは何を示唆しているのだろうか。僕はこう思う。人間が同一である/分離していると見做せるものは全て、その本質的な意味において分離している/同一であるということなのではないか。そしてジンメルはそれの最も卑近な例として「橋」と「扉」を挙げる。「橋」で繋がれているところは、我々は通常繋がっている、同一の場であると感じているが、実はそうではないのだ。それは本質的には分離された場なのである。「扉」はどうだろう。通常我々は扉の内側と外側は全く異なる空間であると感じる。(許可も下りずに他者の家やオフィスに入る人はいないだろう。)しかし、翻ってなぜそこに「扉」があるのだ?何のために?それはジンメルが言うには、扉の外側と内側は本質的には同じ空間だからである。同じ空間だからこそ分離したいのだ。そのためにそこに「扉」が置かれるのである。
だからそもそも、アポリネールが恋人マリーに会うために渡っていた橋のこちら側とあちら側は違う空間なのだ。実際は分断されている。しかし、橋がー橋だけがーこちら側とあちら側を結んでくれる存在だ。恋も、本来はそのようなものなのではないか。決して一つになれない二つの存在が、何とかして互いを共約可能なものにしようとする試みではないか。バタイユは『エロティシズム』において、人間だけが持ち、感じる感覚、「エロティシズム」は、二つの非連続の個体が一時的に融合し連続性を経験することであり、それは「小さな死」であるとした。しかしその連続性は、そもそも「わたし」が唯一的であるのと同じように相手も唯一的であるということによって矛盾が生じ、物理的にも、精神的にも一つになれない、分断されているのだ。
しかし、それでも、それでも尚、互いは互いを理解しようとする。その行いこそ、恋ではないだろうか。そしてその虚しさを抱えた恋を「橋」の比喩としてアポリネールは用いたのだろうと、僕は思う。
だから、アポリネールがそうしたように、僕も、誰かと恋をする/している時には、橋を渡ろう。この橋を通ることでしか、向こう側には渡れない。何故なら、この二つの土地は、あるいは「わたし」と「あなた」は分断しているからだ。そもそも相手を完璧に理解したり、理解されたりすることなどありえないのだ。それでも、渡ろう。アポリネールが橋の途中で待っているかもしれないから。