『花束みたいな恋をした』について語るときに僕の語ること
1. はじめに
正直言って、本当に僕はやることがたくさんある。こんなことをしている場合ではない。が、良い映画を観たのだから感想を書かなくてはならないだろう。その映画は目下話題になっている 土井裕泰監督の『花束みたいな恋をした』だ。この映画は、『(500)日のサマー』や、少し古いがオードリー・ヘップバーン主演の『いつも2人で』のように、恋の初めから終わりまでを描いたものの日本版だ。劇中様々な固有名が登場し、2015〜2020年のサブカル事情を復習した気持ちになれる作品でもあるが、ともかく、必ずハッピーエンドで終わるラブロマンス映画とは違う。だから良いのだ。「何が?」と聞かれて答えられるほど、まだ上手に言語化できていないが、とりあえず書き散らかそうと思う。
2. 「The Star-Crossed Lovers」
僕はこの映画を観て、一曲のジャズを思い出した。それはデューク・エリントンの『The Star-Crossed Lovers』という曲だ。
この曲のタイトルである「Star-Crossed Lovers」というのは、日本語訳すると「星周りの悪い恋人たち」という訳になる。かの有名なシェイクスピアが『ロミオとジュリエット』内の2人(ロミオとジュリエット)を指す際に使った言葉だ。宇宙に数多ある星々のように、ある人生の一瞬だけ、その2人は交差する。その後は恐らく、この広い宇宙の中で、2度と交差することはない。ある時、ある場所で、束の間、2人は同じ軌道を描く時が来る。だからこそ、その恋は(星のように)綺麗で、儚い。それが麦(=ロミオ)と絹(=ジュリエット)の2015年〜2020年までの5年間なのだ。
しかし、『ロミオとジュリエット』と決定的に異なるのは、『花束みたいな恋をした』では、2人が引き裂かれる原因はキャピュレット家とモンタギュー家のようなお家闘争ではないという点だ。それは、「サブカル」で結ばれた2人が、「労働」という最も我々一般社会で暮らす一般人に馴染みやすい、言ってしまえば「普通」のもので引き裂かれるという点だ。2人の5年間はその「労働」を巡る「夢」と「現実」の振り子であると言える。どういうことか。麦は当初イラストレーター(=夢)を追うが、絹との両親の関係や自らの才能の限界を感じ、運送会社(=現実)へと向かう。麦の5年間は「夢→現実」の移動である。その一方で、絹は当初こそ就活をしたり、あるいは簿記の資格を取ったりして事務の仕事(=現実)に就く。しかしその後は結局自分のしたいコンテンツに携わる仕事をしたいとイベント会社(=夢)に就く。故に絹は「現実→夢」へと移動する人物だ。故に、この2人は丁度すれ違う存在であり、その移行期間に、先のジャズのタイトルを借りれば「cross」したカップルであったのだろう。だから、悲しいことに、実は恋の始まりから破局へのカウントダウンは始まっていたのだとも言える。その2人が過ごした一瞬こそ「時計の針が止まって見える現象」のことであり、2人がカラオケで一緒に歌っていた”クロノスタシス”(きのこ帝国)だ。
3. 「そうでありえたかもしれない」2人の麦
人は皆、他者と接する際に、「私もあなたでありえたかもしれない」という感覚を持つのではないか。少なくとも僕はそのような感覚に襲われることがある。目の前で困っている人、全く意見の合わない人、大嫌いな人、等々。なぜ私がその人ではないのだろうか、逆に、なぜその人が私でないのだろうか。私がその人でその人が私であっても良いはずだ。それを決めているのはたまたま僕が1999年に埼玉県に生まれ、○○高校に入学し、○○大学に入学し、たまたまあの本から影響を受け、あの食事を食べ、あの人と話し、...と、かなり偶有的なことに依拠する。(それを強く意識すると『嘔吐』の主人公ロカンタンのように実存的目眩に吐き気を覚えるのだろう。)
さて、『花束みたいな恋をした』ではその偶有的な麦が2人登場している。その1人は、麦と志を同じく芸術の道を選んでいた写真家の先輩だ。彼は、麦とは異なり、最後まで写真家(=夢)を選び、突き進む。その結果、彼女を夜の店で働かせ、挙げ句の果てには暴力を振るうのだ。しかし、もし、麦もイラストレーターという「夢」を追っていれば、絹を夜の店で働かせ、暴力を振るっていたかもしれないのだ。(恐らく絹は、麦は偶有的にそうなり得たことに気付けていない。)
そしてもう1人とは、麦の運送会社でトラックの運転手をしていた男だ。彼は、そのトラックの運転手の仕事が「誰でも良いものだ」ということにやり切れない想いを抱え、運送物を海に捨ててしまう。この運転手は「現実」に振り切った麦の姿だ。現代資本主義社会における労働とは本質的に代替可能だ。(と僕は思っている。)そのやり切れなさ(=現実)に耐えられない姿が、運転手であり、「夢→現実」へ移動した麦がそうならない理由など無いのだ。
僕は、麦に肯定的だ。(もちろん絹への態度などは問題があった。)しかし、彼は少なくとも「偶有性(=他でもあり得た)」を理解した上で「夢→現実」へ変化したように思える。例えば、ラストシーンで麦は絹に起死回生のプロポーズをする。あれも僕は麦なりの「偶有的な世界」への誘いであったのだと思う。「別れる」ことは必然では無い。絹と、また別の形(=結婚)で環境を変えることだってできるのだ、と。(しかし、それにしては言い方が下手だ。「あのパン屋の夫婦みたいになろう。」くらいの気の利いたセリフを言えないのだろうか!)
それに対して、絹はどうだろう。絹は「バターを塗ったトーストは必ずトーストを塗った側が落ちる」というマーフィーの法則の強化版を信じている。絹の落とすトーストに「偶有性」が入り込む余地はない。”必ず”「バターを塗った側が落ちる」のだから。しかし、それは嘘だ。2人の関係や環境は、必然ではない。恐らく絹はそれがわかっていなかった。(もちろんそれも一つの人生のあり方だ。)だから2人はすれ違っていったのだと、僕は思う。
4. 人生に「勝算」はあるのか?
とにかく2人は別れた。圧倒的に今の彼氏/彼女よりも、麦と絹の方がお似合いのように思える。では、2人は別れない方がよかったのだろうか。それはわからないのでは無いか。人生における選択に本質的に良い/悪いはあるのだろうか。僕は麦が『人生の勝算』を読んでいた際の絹の悲しそうな顔が本当に良くわかる。あの本を僕の好きな人が読んでいたら、確かに僕も悲しい。なぜなら、人生に勝算など、無いからだ。正しい/誤りはない。「広告代理店」のやり口に騙されてはいけない。この映画は親しい人とじっくり語りたくなるが、そこに正解や不正解は無いだろう。(誰かのために送った花束に正解や不正解が無いのと同じように。)
最後に、このnoteの記事のタイトルの元になったレイモンド・カーヴァーの小説『愛について語るときに我々の語ること』の一説をひいて終わりにしたい。
「我々は愛についていったい何を知っているだろうか?」とメルは言った。「僕らはみんな愛の初心者みたいに見える」 (p. 250より)