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『Never Let Me Go (わたしを離さないで)』

・最近この題の絵画を制作した。構想自体は去年の冬から練っていたもので、じぶんとしても、これほど思慮を巡らせ身を削って制作したことはなかった。完全に予定調和に制作を遂行できたわけではないが、まあ末っ子の作品でもあるし、それなりに愛着の湧く作品になった。
調度良いし、ここでこの作品についてすこしばかり喋喋することにしたい。

・まずこの作品の制作に至ったのは、一冊の本を読んだことがきっかけだった。お察しの方も多いと思うが、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで(英題:Never Let Me Go)』という本だ。作品の題名も、この本から拝借した。
この本の筋はこうだ。人間たちの体の''スペア''として育てられてきたクローン人間の少年少女たちが、抗いようのない運命に翻弄されながらも、みずからの''記憶''をよすがに、不安や絶望と闘っていく。
カズオ・イシグロは、この本に関して、このようなことばを残している。
「記憶は、死に対する部分的な勝利だ」
なんて切なくもやさしいことばなんだと、ぼくは感銘を受けてしまった。それで、この本を主軸に絵をつくろうと決めたのだ。

・消えない「記憶」があるのはなぜか。
ぼくたち人間の体というのは、絶えず細胞が死に、生まれ、死に、という動的平衡状態の循環によって保たれている。それでも記憶が消えないのは、記憶が細胞ではなく、細胞と細胞の間に、''関係性''として補完されているからだ。
ひとは5年で完全に細胞が入れ替わる。別人になるのだ。それでもぼくたちがぼくたちでいられるその所以というのは、この「記憶」に他ならないだろう。
あるひとりの人間が死んだとしても、その「記憶」が周りの人間によって「関係性」として保持されれば、それは完全な死にはならない。だからこそ、「記憶は死に対する部分的な勝利」なのだ。

・この絵画は、すこし変わった技法で制作された。まず同じ構図・配色の絵を4枚、できるだけ同じように描く。そしてその4枚の絵を、縦横に切ってゆき、同じサイズのこまかい正方形を、いくつも切り離してゆく。それを法則にしたがって並べてゆくと、構図は元絵と同じの、おおきな一枚の絵画になるのだ。

この4枚の元絵は、いわばぼくたち人間だ。微妙に違いながらも、おなじ人間として人の世に産みおとされたのだ。それが、カッターという虚偽や欺瞞、絶望や裏切り、あるいは死によって、必然的にバラバラに切り刻まれる。だけれども、ぼくたちはその絵をまた繋ぎ合わせて、ひとつのおおきな絵画として復活するのだ。
この作品の正方形一枚一枚を見てほしい。一枚の正方形が、ほかの正方形とどこかしらの辺で繋がっているのだ。これこそが、「関係性としての記憶」であり、それが繋ぎ合わされてひとつのおおきな絵画になることで、「死に対する部分的な勝利」をあらわすのだ。
無情な絶望の必然性がぼくたちをつめたく切り刻んでも、その繋ぎ合わせという偶然が、ぼくたちのよすがになる。正方形は絶対性=必然性の象徴で、画面左側で群青の正方形のなかに保管された楕円は、普遍性=偶然性の象徴だ。
ぼくたちの普遍性は絶対性には抗うことはできない。だからこそ、正方形の辺を歪にさせ、せめてその運命に偏屈であろうとしたのだ。

・ぼくたちはさながら星の運行のように出会い、すれ違う。それもまた、つめたい必然に対する勝利の偶然であって、その偶然もまた、人の世の必然よりももっと高い、天の配慮があらわす高位の偶然なのかもしれない。


追記:本作品は高崎アートフォーラムにて展示中。8月5日(月)まで。

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