嘔吐 2
・人間の関心というものは、たえず人間にむけられてきた。そのもっとも端的なあらわれは性欲かと思われるが、性欲は実は人間への関心ではない。それは、破壊と繁殖というふたつの衝動のはざまから、世界の薄明を覗きみる行為なのだ。
性欲とは別にしても、人間はたえず人間への関心にひねもす飢えている。新聞・テレビ・インターネット、隅から隅まで人間のことばかり。たまに動物が出てきたとおもえど、口あたりよく擬人化される。そして人間の話にしても、人間のことばかり。たまに地震や津波や桜の花の満開が話題にあがっても、それはもっぱら人間の利害得失の見地からであって、人の死んだり殺したりという話が、こよなく人間をたのしませている。
したがって天文学や宗教や芸術というのはひと握りの専門家に委ねられ、決して大衆の熱狂を買うことはない。ましてや大衆は、そういった人間の生活や体温とはかけ離れた分野を、やんわりと侮蔑さえしている。
・人間が人間について語り、見、聴くことに飽きないのは、それが人間の存在の条件へのこよない慰謝であるからだし、人が英雄の存在をゆるすのは、どんな英雄の排泄機能も自分たちとおんなじだと知っているからだ。
「結局俺とおんなじじゃないか」と言いたいために、同時に、「よかれあしかれ、俺だけはちがう」と言いたいために、人間は血眼になって人間を探すのだ。存在の条件の同一性の確認と、同時に個体の感覚的実存の確認のために。
・芸術の意義や理念というのはよくわからないけれど、「人間にその実存をはずかしめてやりたい」という使命が、その一翼を担っているようにおもえる。すくなくとも、ぼくにとってはそうだ。
いつだって、「生」というのは無駄に与えられたものだ。もしその持ち主が、その「生」の意義を逐一紐解きたくなるような性格であった場合、世界というのは登攀のよすがもなく、ただ一面につるつるした冷たい球体のようにうつってしまうだろう。そういう人間の唯一の救済の手段こそが、芸術だった。芸術行為というのはすなわち、「存在するという罪から洗われる」ことだ。もちろん、完全に洗われるということは不可能であるけれど、ひとりの人間に可能な限り洗われるのだ。生身の肉体をつくるという極めつけの愚行ではなく、感情も悦びも痛みも切なさも持たない、無機物をつくらなければいけない。したがって芸術というのは、鋼鉄のように美しく、また硬く、冷たく、人間的体温・臭気とは最もかけはなれた対極でなければいけないのだ。
・それでもしかし、じぶんが有機物である以上人間への関心からは逃れることはできない。じぶんは恥ずかしい存在であり、それは長じてからも不変であるという法則も、受け入れなければいけない。ただその懺悔というか、許しを乞う手段として、芸術は用いられたりする。