“思い出”を手放すとき
「え?」
右手に持ったおたまを、落としかける。
「車を売ろうと思う」
仕事から帰ってきた彼は、いつもと変わらない様子で話しかけてきた。もう一ヶ月も前のことだ。
「どうして?」
それ以外、言葉が出てこなかった。車を売る理由なんて、私には一つも見当たらない。
彼は自分の考えを淡々と述べたが、私はそれを飲み込めずにいた。
お互いの譲れない気持ちが、静かにぶつかり合い、火花を散らす。
彼が自分のお金で買った車をどうしようが、本当は関係のないことだけど、私にはどうしても“彼の車”を手放したくない理由があった。
*
初めての出会いは、4年前。
大学の卒業を控えた彼が、親にお金を借りて買った車だった。
真っ赤なヴィッツ。
車のことはよく分からないし、当時は運転免許すら持っていなかったけれど、私は一目でそれを気に入った。
「ま、中古だけどね」
そう言っていた彼も、ハンドルを握りながら、どこか嬉しそうだったのを覚えている。
『初期設定を行ってください』
少し型の古いカーナビから聞こえる女性の機械音声が、妙に新鮮だった。
相当、浮かれていたのかもしれない。
大学を卒業した彼とは遠距離になり、彼と出かける回数は極端に減ったけれど、私たち“3人”は密度の高い時間をたくさん過ごしてきた。
例えば、片道4時間かけて電車を乗り継ぎ、仕事終わりの彼に会いに行った金曜の夜。
飲み会終わりのサラリーマンに紛れ、駅のロータリーに出ると、そこにはどんな車よりも目立つ「真っ赤なヴィッツ」が待ってくれていた。
助手席のドアを開けると、ほんのりと香る彼の匂い。久しぶりに会えた緊張感から生まれる会話は、どこかぎこちない。
彼が「P」から「D」へギアを入れ替えると、ヴィッツは静かに前進する。あのときの幸福感を、私はきっと忘れないだろう。
一緒に遠くへ出かけたことも、数え切れないほどある。
北陸、紀伊半島、四国の旅。1日300kmを越える移動は当たり前で、高速を使えば数時間でたどり着けるところも、私たちはあえて下道を走った。山道を行けば後続車から煽られることもあったし、うなだれるほどの渋滞につかまったことだってある。
それでもヴィッツは、一度も音を上げることなく、私たちを色んな場所へと連れて行ってくれた。息をのむほど綺麗な景色を、たくさん見せてくれた。
「ヴィッツは、本当に優秀だな」
旅から帰ると、彼はいつだってヴィッツを褒めていた気がする。
本当に、優秀だったよね。
そう言えば、彼が初めて私の前で泣いたのも、ヴィッツの中だった。
一週間前に亡くなったおばあちゃんへの後悔を、ぽつりぽつりと溢しながら。彼の大きな背中が、弱々しく震えていたのを覚えている。
ヴィッツの心地よい空間が、彼を素直にさせたのかもしれない。
やっとの思いで免許を取った私が、初めてヴィッツを運転したとき、助手席に座る彼は、大げさなくらい怖がってみせた。
どうしてもバックで駐車することができず、何回もハンドルを切り返したこともあったけど、隣にいる彼よりもヴィッツのほうがヒヤヒヤしていたかもしれない。
彼と暮らし始めてからは、どこに行くにも、“3人”一緒だった。お花見も、花火大会も、紅葉狩りも、クリスマスデートも。
私と彼は、ヴィッツの中でたくさん喧嘩をして、たくさん泣いて、そしてそれ以上に、たくさん騒いで、歌って、笑った。
私たち“3人”は、離れ離れになるにはあまりにも多くの「時間」と「感情」と「思い出」を、共有してしまったのだと思う。
*
「来週には引き渡すから」
結局、彼の知り合いを通じて、ヴィッツは売られることになった。望んでいた結果ではないけれど、今の二人にとっては、賢明な選択だったと信じるほかない。
引き渡す前に、ヴィッツを綺麗にすることになった。
色んなところに行き過ぎたせいか、真っ赤な塗装は所々剥がれてしまっている。
『初期設定を行ってください』
ナビの記録は消去。3人で行った場所のすべてを、ヴィッツは忘れてしまった。思い出を手放す瞬間の、なんと儚いことか。
初めて会った日と一字一句違わない台詞が、狭い空間に虚しく響き渡る。
せめてもの思い出に、最後に3人で写真を撮ることにした。
彼が三脚を立て、レンズを向ける。
ヴィッツの真っ赤なボディは、じんわりと熱い。
外で打ち水をしていた近所のおじさんが、私たちを見て「仲良しだねえ」と笑いかけてきた。
——カシャ、
次にあなたに触れる人が、どうか素敵な人でありますように。
本当に、ありがとう。
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