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虚無の螺旋


…私は虚無きょむを見ている。
虚無は私に付き纏う。
虚無が視界に入ってくる。
何をしていても虚しくなってくる。
私は虚しさから逃げようとする。
少しでも虚無から離れようとする。
随分離れたはずなのに何故だろう、また虚無が顔を出す。
私はどうすれば虚無が見えなくなるのかを必死で考え、探す。
私は一生懸命に虚しさを埋めようとする。
その行為がまた虚しさを連れてくる。
どこを通っても虚無に辿り着く。
どこを彷徨さまよっても虚無に行き合う。
私は虚無から出発する、虚無へと到着する。
いつまでもぐるぐるぐるぐると続く。
緩くなった螺子ねじのように、虚無がまわり続ける。
いや私が虚無をめぐり続けている。


一時的に充実感を感じていても、それが続くわけではない。
特にこれといった理由もないが、ふと全てが虚しく感じて何もかもやめてしまいたくなる。
何もかもやらなくなると、今度は生きている意味を感じることができなくなり、さらにうつになる。
その様な状態が続くともう消えてしまいたくなる。


虚無が手を広げている。


死にたくなるというよりは、消えてしまいたいという表現が適当だと感じる。
誰だって本当は死にたくはないのだから。
これ以上辛い思いをするのであれば、それを受け入れられない、だからそうしなくてよい方法が端的に死であるだけで、もし明日から理想の幸せが手に入りますよと神様に教えてもらえたなら、今まさに縊死いししようとしている人間でも笑顔で近所を走り回るに違いないのだし。
でも本当はみんな虚無に帰りたがっているのではないですか。


だから虚しくなる。
虚しくなると死にたくなる。
これは間違っている。
死が虚無への入り口なのです。
虚無が帰ろうよとさそってくる。
虚無が呼んでいる。
私たちは虚無への誘いをとても嫌う。
虚無が見えなくなるまで、生に没頭ぼっとうできる何かを求める。
なかなか見つからない。
出会えない。
虚無が肩をたたく。
私は振り返る。
虚無と目が合う。
私はまだ帰りたくない。
どうすればいいか分からず、私はうずくまる。
虚無が私を包み込む。
本当は帰りたいのかもしれない。
でも帰ることが少し怖く感じる。
私はまた起き上がり虚無から逃げようとする。
私は前を見て一歩ずつ進む。
時には虚無から大きく距離を取るように走り出す。
ところが目の前には虚無が見えてくる。
私は立ち止まる。
虚無から虚無への繰り返しの中で、心身ともに疲弊する。
私は虚無に身をゆだねようかと思う。
私は虚無に連れていってくれと懇願こんがんする。
虚無はただそこにいるだけで何もしてはくれない。
私は死を恐れてはいない。
恐ろしいのは死ぬことではない。
だから私は自ら死ぬことができないでいる。
私はまた何かをやり始める。
虚無が私を見つめている……


何が原因かはわからないが、私の中から生まれてくる虚無から逃げることは出来ず、そして未だ、人生からも降りられずに私は今日も虚無から逃げ惑い、虚無を埋める何かを求め続けるのです。


>>生の倦怠




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