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ついでの話

今日2回目の更新になってしまうけど、ドラマ「阿修羅のごとく」を見て、思い出したから書いておくだけの備忘録。
阿修羅さんといえば、興福寺の立像をつい思い浮かべてしまう。
結婚前までは年一で大和路を歩いていたが、最後にお目にかかったのはコロナ前、2018年の秋か。

あのどこか少年の面影を残す造形は、光明皇后が聖武天皇との間に生まれた第一子基王をわずか1歳で亡くした傷心を慰めるため、「この子が死なずに生きていたらこんな感じ」という思いを込めて想像上の成長過程のひとつとして作られたからという説がある。
これはわかる。
私も「生きていたならいまいくつ」と死んだ子の年を数えて生きてきた年月がある。

当時、7歳に満たない子は葬式をあげてもらえないので、聖武夫妻は若草山の中腹に寺を造って僧を置き弔った。
その山房は、後に金鍾山寺となる。
それがいまの東大寺のもとになったと言われている。

「東大寺」とは、平城京の東にある「大寺」。
「大寺」は、「天皇の寺」の意。
私は、卒論では西の大寺である西大寺の仏像を取り上げたが、やっつけ仕事だったので詳細はもう記憶の彼方である。

発願した聖武天皇は、文武天皇と宮子の皇子で、宮子の父は藤原不比等。
妻の光明皇后の父も不比等。
44代まで続いた天皇家の血筋に、初めて藤原氏の血が入っただけでなく、それを継ぐ次の天皇は両親ともに藤原の血を引くことが決定したわけだ。

しかし、なんとなくだが、聖武天皇はこれを是としていなかったような気がする。
天皇家が蘇我氏の系譜だったのに対して、藤原氏は物部氏。
そもそも聖徳太子が目指した仏法による日本国の安寧を引き継いだ天皇家に対して、藤原氏(物部氏)は神道であった。

しかし、その藤原の信仰する神道ではなく、聖武は仏教による国家安寧を選択した。
台頭する藤原氏のやりかたを、内心では「まずいんじゃないか」と疑っていたんじゃないかなぁ。
長屋王の変や藤原4兄弟の病死、隕石落下などの天変地異は長屋王の祟りと噂されていたこともあるし、きっと聖武天皇もそう思っていただろう。

その第一歩として、大仏建立を発願したわけだが、これは天皇が命じて税金を取り立てて造営するのではなく、民自身の意思で参加してもらったと言われている。
いまでいうクラファンのようなものかもしれない。
お金を出せない人は労力を提供した。

聖武天皇は、国と民が協力して造ってこそ両方が救われると考え、異例の発願詔を出した。
雲の上の人である帝自ら「私の徳が薄いから世の中が良くならないのです」と世間に告白して、賛同と協力を求めた。
うつ気質だったのではないかと言われているが、これをうまく利用、立案した参謀がいたのだろうか。
光明皇后か?

我が子を模した阿修羅像は、最初に弔った地に造営された「国の寺」東大寺ではなく、「藤原氏の寺」である興福寺に安置されたというのも、妻とその実家の力を現したものかもしれない。

このあたりの話、大河ドラマでやってほしい。
(過去には、スペシャルドラマ「大仏建立」があるが、このときの主人公は吉備真備だった。)



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風待ち
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