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「他人」の距離感
昨日、元夫の昨年の入選作を見に行ってきた。
前回「展示が楽しみ」と返信したから、約束通りに出向いたと言いたかった。
あなたのことは好きではなくなっても(といって嫌いというわけでもない)、絵画を見ることは昔通り好きなままだと伝えたかった。
noteでは、ドラマや小説の感想を書くこともある。
特にドラマに関しては、ほぼいちゃもんで、当の作家や関係者が知ったら立腹すること間違いない。
創れもしないヤツが何を言うか!と思うに決まってる。
だから私は、当人たちの目に触れないことを前提に書いている。
作り手側から「あなたの感想や評価を楽しみにしています」などと言われようものなら、キーボードのひとつさえ押せないだろう。
友人・知人と本の貸し借りをするのが好きではない。
勧められて読むのも苦手だ。
返すとき、あるいは読み終わったと知られたとき、何の感想もつけないのは失礼ではないのかと悩んでしまう。
逆の立場なら、気に入らなかったのかしら?と気を回してしまうかもしれない。
相手もそう思うのではないかしら?
「面白かった」だけでは、あまりに儀礼的というか芸がないのではないしかしら?
それよりもっと困惑するのは、それを生み出した当の本人に感想を述べること。
昔、webの美術情報誌にギャラリーや展覧会の感想を書くバイトをしたことがあるが、すぐに行き詰ってやめさせてもらった。
指定の展覧会、作品が、私の好き嫌いの感覚に合うとは限らないのだ。
そうでないことのほうが多い。
しかし、本人も目にする可能性があるので、どこかは賞賛しなければならない。
ならないわけではないけど、読んだ当人を傷つけたくない。
私も嫌われたくない。
それで。
負の感想を、好意的な言葉にすり替える。
個性的、刺激的、独創的、ドキドキする。
逆は神秘的、世界の広がりを感じるとか、心にすっとなじんでくる、など。
独特の雰囲気があるというのはいずれにも使う。
だからいまは、校閲のために他人様の文章を容赦なくぶった切ることはあるけれど、昔のようにお金をもらって文章を書くことはしていない。
仕事となれば、自分の感覚よりも、お金を払ってくれる相手の思いに沿うことを優先させなければならないから。
私はそう考えてしまうから。
さて。
元夫の作品を見て、なんと書けばいいのか。
彼は昔から「お上手ですね」と言われることを非常に嫌っていた。
幼児がハイハイからよちよち歩きになったときに周りの大人たちは「あんよが上手」と褒めたてるが、そういうニュアンスを感じるのだという。
上手なのは当たり前じゃないか、こちとらこれでお金をもらってるんだから、というプライドが売れない頃の彼にもあった。
わかるような気がする。
かといって、門外漢が何と言おうと「描いてないヤツに何がわかる」という思いもあるだろう。
私も、ぶっちゃけ、自分で書いてない人には読まれたくない。
欲しいのは読者ではなくて書き仲間。
だから、結婚していた頃も、ほかの作家の作品には躊躇なく述べられる感想が、夫のそれには出てこない。
言っていいこと、悪いこと、言ったほうがいいこと、言うべきことと、言いたいことが、蜂のように脳内をぐぁんぐぁん飛び回って言葉にならない。
幸せが何なのか、わからないまま成長し、恋愛し、結婚した。
結婚すれば幸せになれるというような漠然とした思いはあったけれど、じゃあそれが何なのか、そのために具体的にどうすればいいのかわからなかった。
好きな人と一緒にいられるだけでいいじゃないか。
好きな人に機嫌良くいてもらいたい。
怒られたくない。
嫌われたくない。
結果、相手の望むような答えしか口にしなくなる。
気の進まない行動も、とらざるを得ない。
そうしているうちに、すべてが「我慢」になる。
二人の幸せのための我慢ではなく、「あなたのために」「私だけがする我慢」。
本当はそうではない。
夫に我慢させてしまったこともたくさんあっただろう。
離婚によって、互いが互いのためにしていた我慢をやめた。
「自分だけが(自分ばっかり)我慢させられている」という呪縛も解けたわけだ。
その後、母のために、兄のためにと思って努めていたものからも解放された。
コロナがあり、感染や人間関係に対する感覚の差をもって幾人かの友人・知人たちと疎遠になった。
もう互いに「あなたのために」という縛りを感じなくて済む相手としか交流していない。
結果的に「私のために」してくれる支援や助力を素直に受けられるようにもなった。
そして私は、とてもラクになった。
元夫へのメールには、作品の感想を書き添えた。
これまで得たテクニックを弄して、傷つけないような言葉を選びつつ、率直な思いを書いた。
返信には、私の感想を素直に受け取ったような雰囲気が感じられて、安堵とともに不思議な感慨に打たれた。
ああ、私たちは、他人になったのだな。
返信には次の個展の予定が加えられてあった。
行ってもいいということだ。
見てほしいということかもしれない。
「こっそり見たいと思っています」と再返信した。
それは、あなたの不在のときに、という意味だ。
会いたくないというわけではない。
一人で見たいだけ。
もしも私の余命があと半年などと言われて、残り時間に必要なお金が余るようならば、画廊でただの愛好家として彼の絵を買う。
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