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いまさらだけど蛙化現象の件

写真は、ドイツの街ハン・ミュンデン。
メルヘン街道のひとつ、ということになっている。
30年以上前に撮った写真だが、街並み自体はさほど変わっていないような気がしている。(というか、期待)

カッセルの美術館に行ったついでに、気まぐれで訪れただけで、グリム童話にはあまり明るくない。

今年になって「蛙化現象」という言葉を初めて知った。
それで逆算して「蛙の王子様(王様)」のあらすじを読んだのだが、なんだかピンと来ない。

グリム童話のほうは、「気持ち悪い」と疎んじていた蛙の魔法が解けて王子様だとわかっとたん心を寄せるとなっていて、現金といえば現金でとてもわかりやすい話だ。
蛙とは同衾したくないがイケてるプリンスならベッドを共にしてもいい。

でも、今年流行った?「蛙化現象」は、自分が好意を寄せていた相手に好意を寄せられると嫌悪を抱くということで、なんだか元の童話とは話が違う。

しかし、この心理状態はとてもよくわかる。
というか、私自身がその傾向が強く、長年「これは私がおかしいのか」と悩んでいたからで、きっちり心理学的に肯定されたことに胸のつかえがとれたような気がしている。

相手が自分を好きになる前に、自分が相手を好きになるというのが、私の恋の大前提。
そして、想いのシーソーは、いつも私のほうに傾いていないとダメ。

以前、男友達と飲んだときに
「男ってさ、『あの子、お前に気があるみたいだぞ』って言われると、その子が気になって、だんだん好きになっていくっていうの、あるよね」
と言ったら、
「自分を好ましく思ってくれる相手を好ましく思うってのは普通じゃないの?」
と言われて、ガーンとなった。
でも、私は「自分を好ましく思ってくれている」とわかると、ちょっと距離を置きたくなってしまう。
それ以上は近寄らないで、みたいな。

それで、私は言った。
「男は、自分に気がある女なら『自分とヤレるかもしれない』と思うんじゃない?
だから関心が深くなっていく。
女は、自分に気がある男に『ヤラレるかもしれない』という不安が生まれるから、逆に逃げたくなる。
自分が相手を好きだというのは心の問題にとどめておけるけれど、相手が自分を好きだとなった時点で身体の問題になる。
話が急に生臭くなるのが嫌なんじゃないかなぁ。
精液はイカ臭いし。」
と、ビールを飲みながらイカ刺しをつまんだ。

「女は」ではなく「私は」と言うべきだったけれども。
「結局はソコかよ!みたいな感じになるのも嫌なんだよね。」

たぶん私は、sexや結婚が恋愛のゴールみたいな感じになるのが好きじゃないんだなぁ。
だからそういう展開にならないように、相手が距離を詰めれば自分は逃げたくなる。
かといって、逃げる相手を追いかけるということもないんだけど。

元夫とは、結婚が決まった後、いったんキャンセルした。
自分が好きで求めているあいだは良かったけど、相手の気持ちのほうが大きくなると「いじくらしく」なる。
それでも、結局元サヤで結婚してしまったのは、実家のあれこれから逃げたかったのだろう。
あとはタイミング。
結婚は愛の深さというより、運とタイミングと勢いでするものだと思っている。
お金の工面の心配や言い争いのない穏やかな生活に憧れたのもあったけれど、まあそれは叶わなかった。
でも、しなければ良かったとは思っていない。

「恋愛至上主義」は苦手だ。
自分が苦手なだけじゃなく、相手に示されることもだ。
示されると、好意は嫌悪に変わる。

やっぱり私は、愛人体質なのだろう。
「都合のいい女」は、男にとってという意味に使われることが多いが、実は私にとっても都合がいい。
恋愛に費やすのは、心の半分か3分の1くらいがいい。

ずっと男女共学だったし、一人旅暮らしの中では、恋愛より同志感みたいなもののほうが強くて、「好き」かどうかの前提に「人として」というのが必ずあった。
「女として」追われると、私の中の「人としての価値」が駆逐されるような感じがあったのかもしれないといまは思う。

読んでいただきありがとうございますm(__)m