灯を消すもの
女は一途だった。
男の修行する御堂までは、湖を渡って行かなければならない。
「貴女が百夜通って来てくれるなら」
御堂は暗くて遠い湖の向こう岸にある。
夜通し修行する僧のための小さな灯が揺れていた。
男の提案は、女への拒絶であったかもしれない。
それは、女ひとりの力では、到底不可能に見えた。
しかし、女は漕ぐ。
夜は99を数えた。
あと一夜・・・
女の頼りは、御堂に灯された灯ひとつ。
あとすこし。
あとすこしで、女の想いが叶う。
そのとき。
灯が消えた。
夜の湖は、漆黒に沈む。
もはや、進むことも戻ることも叶わぬ。
やがて、女が漕いだ盥か櫂かの残骸だけが、湖畔に流れ着く。
灯を消したのは、修行を妨げられることを恐れた仏か。
仏の意を受けた風か。
当の男であったと私は思っている。
ある友人は手編みのセーターが嫌いだと言う。
「怨念が詰まってそうで怖いんだ。」
誰の作だったか、ショートホラーの記憶がある。
レース編みの得意な女性が恋をした。
しかし、相手の男性には妻がいた。
女性は、ひと針ひと針レースのテーブルセンターを編む。
愛情?
いや、怨念を込めて。
そしてできあがったそのテーブルセンターを、恋しい男性の妻に贈るのだ。
何食わぬ顔をして。
親切そうな笑顔で。
妻は喜んで、それを受け取る。
「いいお友達ができて嬉しいわ。」
だが、徐々に妻の体調は悪くなる。
そして、ある日めまいがして持っていた珈琲カップを落とす。
白いレースのテーブルセンターにシミが広がる。
シミは醜い魔物の顔になり、テーブルセンターは飛び上がって妻の髪に張り付く。
そして、妻は頭の皮を剥がれる、という話だ。
思い詰める気持ちは、あるところを境に狂気を孕むのかもしれない。
ひと針ひと針の思いは小さくても、それを繋いで重ねていくとき、積まれていく危ういエネルギー。
私も編物に凝ったことがある。
しかし私の編物は、たぶん、その相手への想いとは別に、編むこと自体への執着があったのだと思う。
創造の楽しみや達成感というもの、そしてできあがりを見て、着て、驚きと喜びの表情を浮かべる相手の顔を想像すること。
だから、その驚きの瞬間が終わってしまうと、編んできた時間や完成品はどうでもよくなってしまう。
怨念の込め方が足りなかったのか、それらの恋は終焉を迎えた。
私のセーターはどうなったんだろう?
以前飲み会で聞いてみたら、モトカノの編んだセーターを別れてすぐに捨てた人、結婚するときに処分した人、こっそり今もしまってある人、とさまざまだった。
捨てられたセーターの怨念はどこを彷徨うのだろう?
しまわれたセーターの想いは、ただ懐かしさという薬に名を変えて、持ち主を癒しているのだろうか?
私は、元夫のために編んだセーターをいまも着ている。
私の怨念はもちろん、彼が残したいささかの気持ちもそこにはないと思えるからこそ。
心のこもっていないモノが、結果的に私を癒す。
それでいい。
「貴女が百夜通って来てくれるなら」
とか、実際にはゾッとする。
愛を試そうとする言葉や行為に、私は引いてしまう。
「心を込めたのよ」みたいな圧も苦手だ。
人への贈り物も、食べてしまえばなくなるお菓子などできるかぎり後に残らないもの、心を込めた形跡ごと消えてしまうものを選んでいる。(選んだり渡したりするときに心は込めているけれども)
いつまでも形が残って、捨てざるを得なくなったときに、相手に「くれた人に悪いなぁ」と思わせたくない。
つまりは、恋には向いていなかったということかもしれない。