絵葉書
湖北を訪ねるなら初冬と決めていた。
私のイメージの中にある余呉の湖(うみ)は、我慢を重ねた雪雲の下にあった。
そんな小説を読んだことがあったのか、はたまた夢で見た光景なのか、いまだ妄想の出所は不明のままだ。
中学卒業と同時に始めた一人旅。
予約や予定のある旅は好まない。
その日の宿は、その日に決める。
ケータイもスマホもない時代の話だ。
普通は、親が口うるさく言ってようやく連絡をするのが、この年代の若者かもしれなかった。
親を代表とする大人たちの呪縛から、少しでも逃れたいと思い、彼らの干渉を疎ましく感じているという友人が私の周りには多かった。
しかし、私は違った。
私はいつも恐れていた。
私の留守に、何か重大なことが起こるのではないか。
例えば、家族の病気や事故、経済的なアクシデント、それによる諍い、父の勝手な振る舞いに対する兄の我慢の爆発、暴力、そして刑事事件・・・または私の留守をいいことに実行される一家心中。
だから、私はそんなこと少しも要望されないのに、毎日家に電話をした。
電話をして、家族の誰かの明るい声を聞けば、ああみんな無事だと安心できた。
公衆電話での長距離電話。
10円玉がカチャリと落ちる音が家族の命を確認する合図だった。
そして、最初に発せられる誰かの言葉が、すぐに帰ってだとか大変だとかでないことを、芯から祈っていた。
私は、家族の重い現状から、面倒な現実から、逃げながら同時に彼らを求めていた。
そして、何十回もの旅のあいだ、恐れていた言葉を聞いたことは一度もなかった。
そのとき、なぜ自宅に絵葉書を出そうと思ったのか、何がそんな気まぐれを呼んだのか、いまもってわからない。
虫が知らせる、という偶然があるとすれば、それにあたるものかもしれない。
11月の終わり、曇天が続き、断末魔の紅葉も褪せて、全体として灰色の風景が広がっていた。
それはまったく私の思い描いていた初冬の名にふさわしかった。
私は、嬉しいというより救われたような気がした。
余呉湖が、あんまりイメージ通りだったからなのか。
何の愛想もなく、ただいいところです、とかなんとか月並みなことを書いたと思う。
少し北上すれば、故郷の海だということもあったかもしれない。
その頃、家ではトラブルが続いていた。
父は、またしても安易に人を信用し、大切な事業資金と生活費を提供した。
酒を飲み、諌めた兄を罵倒する。
温厚で我慢強い兄の堪忍袋は、もうずっと前からいつ切れてもおかしくないほどボロボロだった。
兄が思いとどまったのは、ひとえに血のつながらない母が、実子(私)と分け隔てなく愛し慈しんで育ててくれたことへの感謝からだったと思う。
母が泣くから、母が心配するから、耐えてきたのだ。
その兄が、父を殴って家を飛び出した。
家の経済を心配した兄の友人たちが、少しでも助けにならないかと、弁護士を探したり、自家製の野菜を持ってきてくれたりしたことが、父の気に障った。
父とすれば、プライドを傷つけられたのかもしれないが、兄だけでなく、世話を焼いてくれた友人たちの悪口を言ったらしい。
兄は激昂した。
自分のことは何を言われてもいい。
でも、心配してくれる友人たちのことは悪く言うな!
誰のせいでこうなったと思っているんだ!
兄は興奮したまま、車のエンジンをかけた。
このままでは、事故を起こしてしまう・・・と母は思った。
車の前に立ちはだかり、行くならこの母を轢いて行けと叫んだそうだ。
殴られた父の傷はどうということもなかったが、心についたそれは大きく、この場には出てこなかったという。
まだまだ子供だと思っていた我が息子に殴られたという衝撃は、私には想像することができない。
兄は、母思いであるから、当然思いとどまった。
が、ホッとしたのもつかのま、動揺した父は、ひとりで仕事を始め、裁断機で人差し指の頭を切断した。
いつもは、母と兄が手伝っていたのを、無視してひとりでやったためだと思われる。
酒に酔っていたせいもあったかもしれない。
余呉湖をあとに、高月の駅で降りた。
渡岸寺という寺に国宝の十一面観音がある。
団体さんの通過を待っているから、私の拝観はいつも時間がかかる。
なまめかしいような腰つきの観音さまは、どこか異国の人のような風貌で私を迎えてくれた。
本来信仰心が薄い私は、仏像を拝見したとき、まず美術品としてとらえる傾向にある。
大学の専門が仏教美術だったこともそれに拍車をかけている。
だから、一応合掌はするのだが、何を祈るわけでもなくただ「お邪魔しております。拝見させてください。」と挨拶をする程度だ。
しかし、このとき、私はお願いをしたのだ。
どうか自宅が無事でありますように。
どうか家族が円満でありますように。
美しい観音さまは、いっとき美術品でも国宝でもなく、慈愛に満ちた信仰の対象として私の心にあった。
そして思った。
これが一流の仏さまだ。
彫刻の技術が確かであるとか、衣文のひだが流麗であるとか、そんなことの前に、ただありがたいと手を合わせ、一番心にかかることを自然に祈ってしまう。
その日は、夜間割引の時刻を待たずに電話をした。
母は何も言わなかった。
前夜、私の電話が終わったあと、家族のあいだに起こったこと、そして父の指の怪我についても。
いつものように「変わりないよ。あんたは元気?」と言っただけだった。
そして、お金がかかるからと言って、きっかり10円分だけで電話を切った。
その後、私は母の演技にまんまとだまされて、信楽で陶器を見たり、伊賀で芭蕉の資料を見たりと脳天気な旅を続けた。
毎日の定期的な電話の応対も、その内容は変わることがなかった。
帰宅して、ようやく事の顛末を聞き、仰天した。
幸い、父の指は、すっぱりときれいに切断されていたので、即座につながっていた。
飛んだ自分の指を拾ったのは父で、これは酔っていたからそれほど痛みを感じずに済んだものとみえる。
アイスノンにくるんで兄が救急病院に運んだらしい。
直前にふたりのあいだに起こった出来事に、それぞれの心がどう決着をつけたのか、私にはわからない。
ぐるぐるまきの包帯は痛々しかったが、元気に帰宅した私を、父は笑って迎えた。
兄も母も、なにもなかったように私の無事を喜び、撮ってきた写真を早く現像しろとせっついた。
私の絵葉書は、ちゃんと着いていた。
着いていたが、それは数日前のものとは思えぬほど、くしゃくしゃでところどころ文字が滲んでいた。
いいところですと書かれただけのその無愛想な絵葉書を、誰がここまで握り締め、濡らしたのか。
冬の曇天の空を見るとき、私の脳裏にはこの旅の湖北の風景が広がる。
そして、痛みの中で、どこか救われたような気もする。
愛も憎しみも、幸せも不幸も、葛藤も呪縛も開放も安堵も、みな曖昧なものであると、空に容認されているような気がして。
それから何十年も経ったあと、門外不出とされたその十一面観音像が国立博物館で公開された。
そのとき、一流の仏さまは、一流の美術品としてそこにあった。
そして私は、のこのこやってきた自分を悔いた。
いまはもう旅先から絵葉書を書くことはない。
スマホで撮った写真を、オンタイムで誰かに送ることもしない。
伝えること、伝えようとすることも大事だけれど、伝わらないもの、あえて伝えないものも、私には大切。