常設展が好き
フランスに暮らしていたとき、週に1度はルーブルに行った。
ランチを食べるおカネは惜しくても、そういう料金は惜しくなかった。
作品のどれが好きというよりも、美術館そのものが好きなのだと思う。
こじんまりとした地方の美術館も好きだ。
個人でやっているギャラリーも。
特別展、企画展はあまり好みじゃない。
どんなにいい企画展を開催しても、常設を持たない美術館は淋しい。
常設には、その美術館の「人となり」というか「美術館なり」が表れる、と思う。
どういうものが好きなのか、どういうものを見せたいのか、おカネを儲けたいのか、客を集めたいのか、どんな客を集めたいのか、人数は集まらなくてもその作家・作品を本当に好きな人に来てもらいたのか、今は誰も興味を持たない無名の作家の良さを世に知らせたいのか、いやいやすでに名のある人の作品で大人数を集めて美術館の知名度をあげたいのか。
そういう意図を、企画展で表明する美術館は多い。
だが。開催期間を限った企画展では、そこに投資した資金を、そこで回収することに重きが置かれる。
回収できる企画が通る。
企画のためにお借りした作品の所蔵者に対して面目を保ち、こんなに盛況だったんだからまた貸してね、と言うためには、来場者数を増やさねばならない。
だから、優待券や招待券をばらまく。
特に興味のない人でも、タダだから、ひまだからとやってきて、マナー知らずのふるまいをする。
それでも、たくさんの人が集まればマスコミも取り上げるし、グッズも売れるし、タダ券を撒いてもなお、というのがある。
そこに、美術館側の、文化芸術への想い、嗜好というものは、どれほど感じられるだろうか。
キュレーターが、私はこれが好きで、是非この良さをみなさんにお見せしたい、と思っても、お客が集まらない、儲からない企画よりは、自分の意図と外れても儲かる企画が実現されやすいと思う。
だから、日本の大きな美術館では、すでに名のある人、人気のある人の企画展ばかり開かれる。
しかし常設は、その美術館が存在する限り、そこの所蔵となり、継続的に公開される。
図書館で本を借りる。
一度読んで、悪くはなかったけど、これで返してしまって2度と読まなくてもまあいいや、と思う作品がある。
しかし、中には、どうしても自分のものにして、何度も再読して味わいたいと思うものがあり、内容を知っているのにわざわざおカネを出して購入する。
友人が来たときに、それらは彼らの視界に入り、ははぁ、この家の人はこういう趣味なんだなぁと思う。
それらは、うちの「常設」となっているのだ。
実は、書棚と冷蔵庫を見られるのは、裸を見られるように恥ずかしい。
それらは、その持ち主の好みや習慣など「素」の部分を表してしまうからだ。
でも、興味を惹かれた相手なら、一時的に飾り立てた企画展より、その人の常設展・・・素を見たいと思う。
それが見られないと残念な気がする。
だから私は、企画展より常設を誇る美術館が好きだ。
いつ行ってもそこにあるという安心感のもとに、年を重ね、経験を積み、変わっていく感性を投影して、同じ作品に違う美を見出す。
一度見たからいいのではなく、何度も何度も同じものを見る。
そのたびに、違った美だけでなく、違った自分を発見する。
それが美術品を見る醍醐味のひとつ、と思っている。
だから、私は「書いたことのない」人、「書いていない」人に読まれるのを好まない。
あなたの「常設」が見たいといつも思う。
めっきり日本語の歌を聴かなくなった。
でもこれは特別。
「0.5の男」の主題歌。
この歌詞と脱力具合に癒される。
ああ、ドラマの視聴が追いつかないよー。