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坊さんなくして葬式なし

プレ定年あるいはプチ定年気分の私。
「毎日何をしてるの?」とよく訊かれる。
んー、食べて寝て、ネット見て書いて、ゲームして、テレビ見てお風呂入って・・・あとは生活を維持するための最低限の家事かなぁ。

「ひまでしょ」と言われ、「そうでもないよ」と返す。
「退屈じゃないの?」と重ねられ、「べつに」と積む。
相手は、微笑みのファンデーションを塗って、私に呆れ顔を見せない気遣いをしてくれる。
「退屈」とはどういうことか、正直言って私にはよくわからない。
「ひまつぶし」という言葉は嫌いだが、感覚が理解できないだけかもしれない。

定年後とか老後を迎えるアドバイスとして「楽しみを持て」「生きがいを見つけよ」「現役のうちから趣味を探せ」と書いてあるものが多い。
タイトルを目にするだけで中身を読まないので、詳細は不明だが、大体の想像はつく。

そういうのが向いた人もいると思う。
でも、私はどうやらそうではないようなのだ。
人それぞれ。

先日、久々に購入した文庫本の上下巻2冊は、下巻の半ばまでは1日で読んでしまった。
セリフをいちいち、私の中の脳内俳優が音読するので、読むのが早いというわけではない。
まあ、そこがプレプチ定年。
時間はあるということだ。
何時になったらご飯を食べよ、風呂に入れよという規制のない暮らしだからこそ。
しかし、終盤、突然面白く感じなくなって、あと3日ほどかけて惰性で読んだ。
途中まではここに感想文を書こうと思っていたのだが、けなすことになるのでもう書かない。

それで、もしかしたら「読書」というもの自体への興味が薄れたのかしらんと思った。
それって老化よね。
「晩年、趣味がないのはボケる」と友人が言うのはこういうことか、と思わないでもない。

でも。
私はこの「何一つ生まない暮らし」に満足している。
非生産生活こそ、究極の贅沢だと思っている。

お金にならないものに時間と労力を費やせる暮らしに憧れてきた。
小学生のころから、数年前家族が死に絶えるまで何十年という間「趣味なんぞするひまがあるならカネを稼がねばならない」という強迫観念があった。
だからこそ、お金のにおいのしない日常に憧れた。

しかし、介護が終わり、コロナが始まり、交通事故で九死に一生を得たあと、私は、お金だけではなく成果物のすべてに対して、生み出さないことを贅沢と感じるようになった。
書物による知識、編み物や刺繍や調理などの成果物、それらによって得られる感動や達成感というものすら生み出さない暮らし。

人生のベストな時期は、消費一辺倒のヨーロッパバックパック生活。
そして次は、いまの何もしない暮らし。

何も生まないということに対して、ずっと劣等感を持って生きてきた。
結婚してからは特に。
根底に、子を成せなかった女というものがあるのかもしれない。

若いころは、人並みに「何者かになりたい」という野望もあったが、年齢を重ねるにつれて「何者」の定義みたいなものに疑問を抱くようになった。
何者ってなんだ?
お金を儲けられる人?
有名な人?
肩書きのある人?
釈然としないまま、日常の煩雑さと「そんな野望に対して努力する時間と労力があるのなら働かなければ」という義務感が支配した。

夫は「恒産なくして恒心なし」という言葉が好きで、よく私に説諭した。
孟子の真意は別として、あくまでも夫の言い分は「安定して金儲けができなければ、心も安定しない」ということだ。
つまり私に「もっと働け」というのである。
私は婦人科方面に持病を抱えていて、たびたび悪化しては退職し、臨時の雇用でつないでいたのだが、これが夫にとって大きな不満だったのだ。

実は夫に聞くまで、この言葉すら知らなかった。
そして初めて言われたとき「坊さんなくして葬式なし」と聞こえた。
聞き間違いにもほどがある。

しかし。
申し訳ないが、すでに御坊様なしでも葬式ができる時代だ。
そして、私はいま「何も生み出さない暮らし」に大きな精神的安定を感じている。

家族を飢えさせるわけにいかないから、これまでやむなく働いてきたけれど、一人になったいまは、私が飢えるのはかまわない。

誰かの役に立ちたいとも思わない。
役に立ちたいと思えば、心のどこかに「本当に役に立っているのか」という自分への疑念が生まれる。
役に立っていると自覚すれば、態度のどこかに「どうよ、私って役に立っているのよ」という尊大さが出てしまう。
いずれの自分も好きではない。

私にとっては「好きなこと」も恋と同じように、躍起になって探したり見つけたりするものではなく、自ずと湧き上がってくるもの。
もう読書であれ旅であれ、「しなければならない(時間がもったいない)」とは思わない。

昔に読んだ佐藤愛子氏のエッセイに、お母様の話があった。
佐藤紅緑の妻で元女優。
愛子氏は、晩年、何もしなくなった母親に「そんなに何もしないでいて退屈ではないのか」という問いをする。
するとお母様は「精神世界が充実していれば退屈なんてことはないのです」というような答えをするのだが、愛子氏も、読んだ私も共通して
「精神世界ってなんやねん?」

ちょっと宗教っぽくて構えてしまうけれど、なんだかいまはわからないでもない。
問いかけた相手が言葉を失ってしまう「名(迷)回答」だよね。
引いてほしい相手をけむに巻くのにちょうどいい。



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風待ち
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