保育所等訪問 その2
子供達が中3、小6、小2の時に離婚して、群馬の実家に住まわせてもらった。当時は、夫の子供達への虐待から、子供達をどう守るかしか考えていなかった私にとって、親からの申し出はとてもありがたかった。でも、発達障害(以降愉快な子供達という表現にする)を持っている子供達との協同生活は、父母にとってはきつかったに違いない。70歳を過ぎて愉快な子供達を理解してくれと言ってもなかなか理解は難しかったのだろうと、今は分かるが、当時の私には日々の生活に必死で、そこを考える余裕はなかった。
障害者支援センター
自分の尺度で物事をはかる祖父とは元々気が合わない。まして愉快なこども達が祖父の尺度に当てはまる訳もない。そうすると、攻撃するところはこどもの母である私になる。育て方が悪かった等はまだいい方で、しまいにはこんなこどもたちだから、虐待しても仕方ないとまで言い出した。
始めは分かってもらおうと努力してみたのだが、私自身が体調を壊し始めてきたので、センターに相談した。
すると、保育所等訪問ということで祖父母に会って、こども達の様子などを話してくれることになった。祖父母は専門の方からの話しに真剣に聞いていた。
その後の祖父母
その場では分かったように聞いていたが、やはり、発達障害そのものを理解することは難しかったようだ。これができないとダメだ、こんなんじゃあだめ人間になるというように、自分の尺度でしかはかれない祖父。それを70年以上もやってきたのだから、今更変われるわけがないと諦めた。諦めることも大切だと保育所等訪問の担当者に言われ、かなり気が楽になった。
その後のこども達
祖父母からの理解は得られないまま、小中学校への不信感も拭い去れないので、地元の中学校からは連携校ということで、地元の高校に割とスムーズに入れるシステムがあったのだが、次男はそれは利用せず、寄宿舎のついている支援学校に入学した。3年後、免許をとりグループホームで生活して、仕事も続けている。
次男が支援学校に入学した1年後、三男と共に実家を離れ、今の所に引っ越した。それから3年、今は実家の近くの高校に無事に入学して、毎日学校に通っている。
長男は県外の大学に進み、この春から東北で就職した。ギリギリまでは働くイメージが持てずにいたが、とりあえず自分に必要なものを全てそろえ、三ヶ月生活できるくらいの貯金ができてから考えてもいいんじゃないかなという言葉をかけたら納得したようで、まだ辞めずに働いている。
あの時の振り返って
私は引っ越してから保育士を続けているが、職場は三回変わった。引っ越した市営住宅からもこども達の事を理解してもらえず、深夜に住民に囲まれ、かなりきついお叱りを受けた。
市営住宅に引っ越してから半年ほどで引っ越しすることになった。今は小さいが庭のある一軒家に住んでいる。隣の人はとても優しい。子ども達もとても気に入っている。
今は自分探しというか、今まで学んだことを生かせるものをしたいと模索中である。
あの時は置かれてる環境を恨んだが、今となっては、それも全て今の私になるために必要な事だったんだなと思う。あの時があったから、私は保育所等訪問の様な仕事がしたいと思った。今はまだ、形になるためのシステムが作られていない。ただ、どんなに説明しても分かってもらえない苦労は分かる。また、当事者以外の人が入ることで少しは道が開けることも経験してきた。
私の夢は、保育所等訪問で子どもを取り巻く全ての環境を整えること。そんな夢が持てたということは、決して祖父母とのやりとり、愉快なこどもたちとの出会いは必然だったのだと思う今日この頃である。
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