『カリオストロの城』のルパンはニセモノなのか?
『カリオストロの城』(以下、カリ城)のキーワードのひとつは、「ニセモノ」である。
地下工房の陰謀のニセ札、ルパンが作ったニセモノの指輪…そして一部のファンにとっては、ルパンすらニセモノだろう。なぜなら宮崎監督が描くルパンは、モンキー・パンチ先生が描く原作のルパンとは、大きくかけ離れているからだ。
映画のラストで静かにキスをせがむクラリスに対し、ルパンは額にそっと口づけることで応える。これが原作なら、ルパンはクラリスを犯すだろう。もしかすると、服を破られるぐらいで済むかもしれない。どちらにせよ、原作のルパンは可憐な美少女クラリスを放っておかないだろう。モンキー先生や原作ファンからすると、「カリ城のルパンはルパンじゃない」という気持ちなのではないか、と思う。
面白いのは、前作の『複製人間』で、ルパンはマモーからホンモノの自分を取り戻したばかりだということである。にもかかわらず、次作で早くもコピーが作られ、ある意味でニセモノにされてしまうというのがなんとも皮肉だ。
(当時の複製人間の映画パンフレットからは、「ファーストシリーズのような大人向けルパンをもう一度」、すなわち「ホンモノのルパンをもう一度」という姿勢が伺える。この頃はコミカルなセカンドシリーズが作られ、ルパンは子供向けのアニメと化していた。)
「ある意味で」ニセモノにされてしまうと書いたのは、原作だけでなく『ルパン三世』そのもののファンならば、カリ城のルパンもホンモノとして受け入れられるからである。
そもそも、ルパンの絵柄や性格がまったく違うのは、カリ城だけではない。その後の作品でもさまざまな監督によって毎度異なる個性を手にしていくルパンたちは、まさにコピー人間と言える。それでも、コピーであるルパンたちがそれぞれオリジナルと認められるのは、『自由なキャラの生まれ方』で書いたように、多くの監督たちの協力によってさまざまな姿を持つことで、ルパンは究極に自由なキャラクターでいられるからだ。その自由な姿そのものがルパンの「オリジナル」(他のアニメにはない自由という個性)なのだ。決して、「(原作も含めた)この作品がオリジナル」という意味ではない。こんな不思議な作品・キャラは、世界広しと言えどもルパン三世だけではなかろうか。
それを、他の作品と同じように、「原作こそがオリジナル」と思っている原作ファンであれば、カリ城やそれ以降の「優しいルパンおじさん」をニセモノだと感じてしまうのだ。
もっと言えば、カリ城公開当初はニセモノだったかもしれない。のちに色んなルパンが作られ、ルパンが「自由」になったとき、カリ城ルパンは初めてホンモノになれたのかもしれない。
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