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高校1年の春、大学病院での骨髄穿刺そして病名がわかりました

近所の開業医さんで詳しい検査(骨髄穿刺)をしたところ、血液の病気だとわかり、大学病院に紹介されました。
の続きです。

春休み中に、初めて大きな大学病院へ。めちゃめちゃ大きな病院。患者さんがどの廊下のベンチにもギッシリと、診察待ちをしています。
今までのご近所の開業医とは
まったく雰囲気が違う大病院の威圧感に、
15歳の私は
大きな病気になってしまったんや、、、

と、
気持ちがどんよりしていきました。

そして、大学病院の血液内科でも
またもや
あの怖い骨髄穿刺をせねばならないとのこと、、、(⁠-⁠_⁠-⁠;⁠)

高校早退し、大学病院の病棟へ初めて踏み入れる

検査日は、高校に入学し新学期が始まっていました。
高校を早退して制服のまま、母と一緒に大学病院へ。前回の骨髄穿刺でそれはそれは恐ろしい思いをしたので本当にどんよりした気持ちで足取り重く、、、。

ただ、前回と違い「入院しなくていい。外来で検査ができる」という事だけは、気持ち軽やかでした。

大学病院に行くってだけでも、慣れないし、自分に大変なことが起きてしまってる・・・という恐怖でこれからどうなるのか、と、不安でいっぱいです。

そして、大学病院の「病棟」へと踏み入れることになりました。

15歳の私。
関西中から難しい病気を患っている患者さんが集まる大学病院の病棟に緊張しながら上がり、他の患者さんや病棟の中もなるべく見ないようにしながら
ハラハラと先生に言われた病室に行きました。
古い病院

四人部屋の窓際のベッドでした。

何階だったかは、さすがに覚えてないです。だいぶん上の方だったようなかすかな記憶が・・・
病室に入った私は・・・
(「病室ってこんなんなんやぁ、、、」)

まだ若かった母も緊張した顔で、ずっとそばにいてくれました。

待っていると、外来の血液内科の先生と若い医師がやってきて、検査準備を始めました。今思えば、その若い医師は、研修医だったのでしょう。当時の私は、病院の仕組みなどまったく知らない、わからない、
ただ、先生に言われたまま「はい」と、緊張して答えるばかりです。

検査は、当然、この前やったことが繰り返されるのだろうと思って、苦しさを思い出しては、どんよりしていたのですが
説明を聞いていると
主治医>「じゃあね、腰の骨から取りますからね」と。
私>「え!胸骨じゃないんですか?」
主治医>「うん。うちでは腰から取るからね。ベッドにうつ伏せになれるかな?」
私>「はい」

というわけで、大学病院の病棟ベッドに初めて横になり、うつ伏せに。
研修医が指導されながら、私の骨髄穿刺をするようなのですが、
私はうつ伏せなので状況が把握できない。

状況が把握できないのは、前回の骨髄穿刺と同じなのですが、
前回は目隠しされていたことを思うと
今回は、うつ伏せで、見えないだけなので精神的な圧迫感が全然違いました。

それに、胸骨は顔に近いところだから、より怖いのですが
今回の腰骨は、お尻の方なので、顔から遠いし、前回と比べると怖さレベルが低かった。

太い針を刺すときの、「グリグリグリグリ」って鈍い骨から伝わってくる音と痛みは同じでめちゃめちゃ嫌な、不快な、「2度としたくないーっ><」って思うようないやなヤツでしたが前回よりは遥かに楽でした。

今回は、母がそばについてくれていたし、主治医が優しく声かけしてくれていたのも安心につながりました。

母が、あとで教えてくれましたが「ピストルみたいな形の器具に針がついてて、それをグイっと刺してた」とのこと。

それで、「はい終わったからね。よく頑張りました」と、主治医の先生が言ってくれたと思ったら、
先生は母の方を振り返り「じゃ、お母さん、この検体を持って、走って中央検査室まで持っていってください」

母>「え!?」
主治医>「お母さんが持っていくんです。今から場所を説明しますから、しっかり覚えて、なるべく早く持っていってください。検査室には電話しておいたので、すぐわかるようになってるから。走っていってきてね」

母>「は、はい。わかりました。走っていってきます」

なぜ、母が検査室に検体を持っていかねばならなかったのか、いまだに謎ですが、母は道順を一生懸命覚えて走って行きました。
検査後の私は、例のごとく止血をしないといけないので
砂袋のおもりを、針をさした後に乗せられて

主治医>「絶対、動いてはいけませんよ。2時間ぐらいそのままで我慢して」
と、言われ、
またしても、ジーッとうつ伏せのまま、固まっていました。

当時まだ若かった母は、初めての大学病院の中の中、奥の奥・・・
患者が出入りしないような
「大病院のディープな世界」に入り込み、ハラハラしながら、走って私の骨髄を検査室まで持っていったのでした。

2時間ほどして、止血成功し、無事に病棟を後にできました。
そのまま普通に歩いて、帰れたのです。
一回で、骨髄も取れたし、腰の骨で取ったので、怖くなかったし、
今回の骨髄穿刺は、前回よりもグーンと楽でした。

病名確定し、病気の説明を受ける。衝撃を受ける、私

その検査結果も踏まえて、
病名候補に上がっていた白血病や血液のガンなどが否定され、消去法で、病名が確定。

「特発性血小板減少性紫斑病(ITP)」と診断されました。

この病名を、主治医から告げられた時、「『原因はわからないけど、血小板が少なくなって、紫斑があちこちにできる病気です』と、いう病名です」と説明されました。

そして、「血小板を攻撃する抗体ができて、血小板が変な形になる。血小板は変な形になってもちゃんと働いてくれるのだけど、血液を再生・再利用するための破壊工場の役目をしている脾臓が『あ、使い物にならない血小板がやってきた』と、思ってしまい、血小板をどんどんどんどん壊してしまうんですよ」と。

「自分の免疫力が自分を攻撃するから、『自己免疫疾患』と呼ばれる仲間の病気です」と。

「血小板を作る骨髄の病気ではないので、生産はしっかりしてくれているけど、壊す方が早くて、血液の中で少なくなってしまって、血が止まりにくくなるんだよね」と。

高校1年生になりたての私が理解しやすいように、丁寧に説明してくれました。

先生の説明はよくわかりましたが、「私は難病になってしまったのだ・・・」というショックが大きくて、
その頃から、
重たい足かせをはめられたような気持ちに。
手足の自由を削がれてしまったような、
何をするにも
「私は病気だから、私は血が止まらないから」と、いつもブレーキをかけて
やりたいことも
はしゃぎたい時も、
何かしら自分を我慢させるようになったと思います。

「やりたいことより、命を優先しないと」という気持ちです。

「難病になってしまった」というショックを受けた時から、15歳の私の心に、ずしんと重たい鎖が巻ついたようでした。

母も同じで、いつもいつも私の体調を心配し、
もしも娘が出血が止まらなくなったら、
もしも倒れたら、
主治医に連絡せねば!と、

この血液内科の主治医の「電話番号を大きく書いた紙」をお守りのように必ず持つようになりました。

大病をした時、
病気の受け止め方、考え方は、人それぞれ違うと思います。

「寿命が短そうだから、今やりたいことを全力でやろう」

「旅行行きたい。食べたいもの全部食べてやる。欲しいもの手に入れる(買う)・・・」

「制約があっても、やりたいこと諦めても、絶対、命優先だ」

とか、
人それぞれ考え方があるだろうと思います。

私は、
「やりたいことができなくなったとしても、少しでも安全に、生きていられること」を望みました。
その分、諦めることは多かったのかもしれません。

自分では、「生きること」がダントツに優先順位一番だったので
諦めることが多くても、
あまり気になりませんでした。

生きていられるだけでまる儲けです。

こんな私が、ITPに対してどんな治療をして、
どんな高校生活を過ごしていったのか、
またそのうち書きますね!


前回はこちらです↓


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