集まる写真
「集合写真を撮りま〜す!」と言われると、自然と列を成してしまうのはなぜなのでしょうか。
体が勝手に、前後2列の想定で横並びになってしまう。人数が多ければ3列になり、中央の列は中腰になる…など体に染み付いた集合写真のお作法。
きっと学校教育の中でたくさん撮ってきた集合写真がそうさせるのでしょう。
あの四角い写真に綺麗に収まるためには、と考えると自然と整列してしまうものです。
それは撮影する側になっても同じで、ある程度全員が同じ状態で写るように気を使ったりすると、気づいたら整列を求めています。隣同士が等間隔になるように、しゃがんている人が同じくらいの高さになるように、ポーズを揃えて…と「綺麗な状態」を目指して整えていきます。
ですが、それっておもしろいのか?と、ふと思った瞬間がありました。
新潟へフィールドワークで訪れた際の朝。
天気も良いし集合写真を撮っておきましょう、というタイミングになり、ふと参加者のみんなを見ると、ぱらりと散らばって各々が新潟の冬の朝の雰囲気を感じているように思えました。
「このままでもいいかも…」
適度に散らばって、まだ眠そうな人もいればシャキッと今日を楽しみにしている人もいる。
この状態が、新潟フィールドワークにぴったりだと思いました。
日本海側の新潟には珍しい冬晴れの青い空が綺麗で、フィールドワークを通して新潟を味わう参加者のみんな。いい写真です。
「よくある集合写真」という枠からは外れていますが、集合はしているし、雰囲気が詰まっているし、みんなからも好評。それでいいなと思いました。
この新潟での集合写真をきっかけに、各地のフィールドワークで撮影する集合写真はより自由なものへと変化していきます。
奈良・東吉野の集合写真は先ほど登場しましたが、実はもう1枚あります。
東吉野にあるオフィスキャンプの前を流れる川で撮影しました。
滞在中にみんなで何度も川に入ったり、川辺でお昼を食べたり、ただ橋から眺めたり。地域の人たちの暮らしの中心にもなっている感じがあり、東吉野のフィールドワークには欠かせない場所です。
きっとこの場所で撮るとなったら、誰もが整列など忘れてしまうのではないでしょうか。
集合写真がなぜあるか、その価値はどこなのか。
ここまで堅い思考ではありませんが、そういったことを考えると、多分「全員で思い出の1枚」なんだろうなと。
このフィールドワークがどんな場所で、どんな人と、どんなことを体験して…というものが詰まっている=良い集合写真。
純粋な記録的側面も集合写真にはあると思っていて、いつどこで誰と何をしたかが外部記憶として写真になる。どうしても時間が経つと忘れてしまいますが、見たら少しでも色々なことを思い出せるような写真が撮りたいです。
改めて、写真っていいなと思えました。
ここから蛇足。
もしかして人は、写真が平面なことを自然と理解し、整列してなるべく面で写ろうとする?つまり、空間の奥行きが脳から削除され、のっぺりとした平面で捉えることによりあの整列が起こる?
考えすぎでしょうか。