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構造的に気になってしまうだけ

TBSラジオでやっている町山智浩さんの映画評論「アメリカ流れ者」が好きで、ポッドキャストの更新を毎回楽しみにしている。
私は映画をよく一人で観に行くので、同じ映画を見た全く別の人がどう感じたのか、どう分析したのかを聞けるのはとても興味深い。また町山さんはアメリカ生活が長いこともあってか、映画のチョイスやコメントからいつも弱者への思いやりがあると感じられて、その点でもこの番組のコーナーが好きなのだ。

今日聴いた放送の中では「非常に残念な男(Shortcomings)」というアメリカで撮られた日系3世の男の子が主人公の映画が紹介されていた。

この映画の解説の中で、町山さんが、アメリカでは「中国、韓国、日本系の男性たちだけが、家父長制をいつまでもずっと引きずっている」というお話しをされていた。「日本や韓国だと特に、フェミニストに対するネットでの攻撃もものすごく多い」とも。これらは日本で育ったのちに、20代の大半を北米で過ごしてきた私にも大変共感できる考察である。それをきいた上で、以前より気になるようになってしまったことが二点だけある。

今から書くことは町山さんや番組を素敵にリードしてくださっているパーソナリティさんたちや、裏でこの放送を作っている多くの方々の非ではないであろうことはご了承した上で読んでいただきたい。だから個人よりももっと大きな「構造的なもの」を表している話しとして聞いてもらえたらと思う。

その違和感を感じる二点とは「サムネイルのイラスト」と「聞き手と話し手としての男女の役割」だ。

一つ目のサムネイルの件。上のリンクからも見えるように、サムネに使われているイラストは、長い金髪の白人女性が、ミリタリー風の格好をして銃を持ち、アメリカ国旗がデザインされたビキニから胸の谷間を見せつつ、こちらを非常に無垢な幼い表情で見ているというデザインのもの。日本人が好きとよく評される「幼い女の子」(しかも美の標準にされやすい白人の女の子)の顔の下に、豊満な胸を持つ若い女性の胴体(しかも胸がすごく強調されている描かれ方のもの)がついたイラストって、近年電車や新聞の広告で使われて、ゾーニングがしっかりできていないと批判されたものではなかっただろうか。

おそらく何年もこのイラストがサムネに使われてきたのだろう。ただ、この絵がどのリスナー層の目を惹こうとしているのかを想像すると、番組の内容とは関わりが薄いような気がして不思議に思う。

二つ目が、「中年の男性が解説をして、若い女性がそれを聞く」という、日本の報道番組でもいまだによく見られる構造である。パーソナリティの石山蓮華さんもでか美ちゃんさんも、ご自身の考えや視点をしっかりと持っていて、感想を言えるお二方である。ただお二人とも30代前半とお若く綺麗な女性で、番組の構成上「年上の有識者の男性の話しを『上手に聞く』役」を期待されているのが明らかだ。もちろん町山さんご自身も、番組の役割上、よく配慮をしないと「マンスプレイン(Mansplain)」に陥りやすくなってしまうと理解されている様子で、そうならないような進行をしている。
(マンスプレインとは「男」と「説明」という二単語を合体させてできた現代語で「男性が話し相手の女性が自分の話しているトピックに対する知識が全くないと勝手に憶測して、自信たっぷりにクドクドと説明する」という意味の動詞である。)

だからただあくまで、番組を多くの人に聞いてもらってうまく継続していくための「定石」を使っているだけ。つまり「構造上の問題」なのである。この二点に関わらず私はこのポッドキャストを聴くのは大好きだ。
ただそういった「構造」に気がついてしまうと、もう違和感を感じなかった頃には戻れないということなのだ。


修士課程をやっていた時、たまたま日本近現代文学のセミナーを履修する機会があった。その時、同じセミナーをとっていた博士課程の友人がこう言った。「文学が好きだからってこの分野に入って研究者になると、もう単純に楽しみながら物語を読み進めるという体験ができなくなってしまう。」それに近いことが私にも起きているのかもしれない。


じゃあ自分から知識を得ようと踏み出さなければ良かったじゃないか、や、違和感は感じても目を瞑って何もなかったことにすればいい、といわれても私には納得できない。別に不快だから番組の何かしらを変えてくれなんて一切思わない。重ねて、私は番組自体が好きで聴くのを楽しみにしているし、今のままこのコーナーがずっと続いてほしいと願う。ただ、自分が日々の中で感じたことは正直にちゃんと書き残しておきたいと思った。

私にとってnoteは、人に公開している日記でもあるけれど、読んだ人の中で、たった一人の知らない誰かに「こういう状況とか感情を持っている人って、私ひとりだけじゃないんだな」と感じてもらいたい、という気持ちもあって書き続けている。社会の中にある様々な「構造」の中で私たちは生きていて、そんなの個人では抗ったり転覆させたりできない。だったら個々の中で「わかるよ」「言語化してくれてありがとう」のつながりができたらそれだけで充分なんじゃないかと、今はそう思っている。


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