なぜ生きる
私とは何か。
物心ついたときから考え続けていた。
「女の子でしょ」
母にそう言われる毎に腹を立てていた。リボンやレースのついた下着や洋服、スカートなどは「着たくない」と駄々をこねていた。
自分が女性なのは事実。けれど「女性らしさ」を他人から求められることに強烈な嫌悪感を感じていた。
その他にも「慣例に習う」「しきたりを守る」ということにも嫌悪感があった。当たり前のことにいちいち疑問を感じてしまう。
アマノジャクなのだ。
「本当にご飯は三食決まった時間に食べるのが一番いいのだろうか」
「本当に毎日洗剤で体や髪を洗う必要があるのだろうか」
結局はみんなに合わせなければいけないこともわかっているし、合わせていく中で、そのしきたりの重要性なども納得していくのだけど、「他のやり方もあるのになぜ型にはめられなければならないのか」と思っている部分は捨てられない。
表面的にどんなに普通を装っても、自分の芯の部分はとても偏屈で頑固でへそ曲がりな人間なのだと思う。
生きることがめんどくさい
「本質を追究せずにはいられない」「納得するまで考え続けてしまう」ということにずっと悩んできた。
生きることがめんどくさくて仕方ない。
「生まれてさえこなければ…」と、どうしても思ってしまう。言ってもどうにもならない事なので誰にも話せず、それでも思いを消せなくて、頭の中で口ぐせになってしまった。
うまくいかないことも多い。めんどくさいことをやり過ごすだけの人生。せめてひっそりと、当たり障り無く生きられたらいいのに、他人を巻き込んで、誰かに迷惑をかけなければ生きていけない。
「社会」の事を考えると、自分などいない方がよい社会になるように思えてならない。だから時々死にたくなるほど落ち込む。
しかし、いざ死に直面すれば、恐怖で身がこわばり、危険から全力で逃げる自分がいる。思いとはうらはらに、身体は全力で生きたがっている。
全力で生きようとしている生命力に気付く。
「なぜ死んではいけないのか」
今までずっと考え続けて、自分なりの答えが信念になりつつある。
「生きる」ために、人は助け合って生きてきたのに、「社会」のために死ぬ人がいたら、それって本末転倒なのではないだろうか。
「死ぬのがこわい」その当たり前の感覚こそ生命力であって、それこそが生きる意味なのだと思う。
「死にたい」という気持ちには「社会の役に立たない人間は死んだ方がいい」というメッセージがあふれている。そんなはずはない。「生きる」ために作り上げた「社会」のために、死ななければならないなんてやっぱりおかしい。
だから、私は頑固でも偏屈でもいい。私という人間が生まれてきた背景に、なんの事情があろうとなかろうとどうでもいい。私が生きることによって誰にどんな影響を及ぼそうとも関係ない。
生まれ落ちたひとつの生命として、自分の命を守り抜いてこそ当然という、「生きる」事の本質を体現するために生きているのだ。
最後まで「生きる」事に必死なのが一番自然な姿なのだと思う。
では「社会」とはどうあるべきで、それを窮屈に感じることについてどう対処したらよいのだろうか。
もちろん、誰かと助け合った方が「生きる」は容易いし、楽しい。だから、「社会」を大切にして、しきたりを守ることも無駄ではない。無理をして人に合わせてきた私の努力も、決して間違いではない。
すべては生きるために必要なことなのだ。できる範囲で、よりよいと思える行動をしていけば、それでよいし、それしかないのではないだろうか。
結論。
だから「まぁ、いいか」と思うことにした。
誰だって「生きる」ために一生懸命なのだから。
人に迷惑をかけてもいいし、それでも生きていてもいいし、「死にたくないから生きてる」それでいいと思う。
きっとみんなそうなのだから、そういうことにしよう。
持ちつ持たれつってそういうこと、それが「社会」なのだと。
困っている人がいたら、助けたい。
自分が困ったら、「助けて」って言いたい。
自分に優しくなれば、人にも優しくなれる、そう思う。
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