助けを求めるということ
汚いものにフタをして、したたかに生きられる人だけの社会が出来上がってはいないだろうか。
マイノリティ、社会的弱者。そういう人達が表だって理解を求めたところで、白い紙に黒いインクがにじんでいくかのように、社会がむしばまれる感覚で見る人も多いのではないだろうか。
わが家は今、不登校の問題に直面している。
社会でも不登校が増えていることが問題にされているけれど、実は不登校は問題ではないのだ。学校へ行かなくても学べることは多いし、不登校でも自分らしくちゃんと育つ子も多い。
問題は、学校へ行かない選択をした場合の環境が、家庭によって大きく違うことだ。理解のある家庭なら、子を否定することなく、情報を得て、人脈を広め、適切な居場所を与えることができる。
ところが、保育、教育、しつけ、それら全てに自信がなく、学校の恩恵を享受してきた親にとっては、不登校は脅威である。
学校で受けられるはずの多くのものを、全て家庭で提供しなければならなくなるのだから。保育のために仕事ができないとなれば、収入さえ得られない。
教育やしつけは決して親だけで成せるわけでなく、他者との関わりの中でこそ育つものだ。家の中、子供と共に缶詰め状態で、することもなければ行くあてもない。社会から取り残され、不安やあせりだけがふくらんでゆく。
親が追い詰められたなら、子を責め、なんとか学校へ行かせようと傷つけ、子の生きる気力すら削ぎ落としてしまうかもしれない。
「登校を渋るなら家で」と言うのは、一見配慮があるように聞こえるけれど、自分で解決できない家庭にとっては、さしのべられた手が離れ、社会への扉が閉ざされたかのように感じてしまったりもする。
そして、そんな家庭を責めたところで、解決の糸口にはならない現実。学校を出て会社へ入れば人生が保証され、社会の敷いたレールの上だけを走ってきた大人は山ほどいる。
そのレールに乗らない子供を恐れ、レールの外を見ようともしないことは、なんら不思議のないこと。
さして力も持たぬまま、社会の敷いたレールに乗って家庭を持ったはいいが、レールを外れ行き先を見失う。そんな親のとるべき行動はなんなのだろうか。
私は、まず声をあげることではないかと思う。なりふり構わず、助けを求めればいい。白い紙にインクを振り撒いて、社会を色々に染め上げればよいのだ。
きっと共に考えてくれる人がいる。しょせん社会などいつまでも未完成な幻なのだ。そこに生きる人々が、お互いに助け合って成り立っていく仕組みを社会と名付けてみただけのこと。
恐れることはないのだ。誰にでもいい。蔑まれたらまた別の人に言えばいい。困っている自分が存在するということ自体が社会の一部なのだから。共に考えてくれる誰かが見つかるまで、「助けて」と言い続けよう。
、、と、自分に言い聞かせて、今日もがんばろう、自分。
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