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更年期反乱軍の変「魔女になる日 さよならおっぱい」6


*これから、少しさかのぼって、乳がんによる右乳房全切除に至るまでのことを振り返ってみる。今回は乳がん発見に至る兆候について。
 
更年期反乱軍の流血

 
 53歳。初潮から40年が経っても、私はなかなか閉経しなかった。

「乳がんの発生や増殖には、女性ホルモンであるエストロゲンの曝露が深く関わっている」「初経年齢が早い人ほど乳がん発症リスクが高いことはほぼ確実。閉経年齢が遅い人ほど乳がん発症リスクが高いこともほぼ確実」(『患者さんのための乳がん診療ガイドライン』日本乳がん学会編 金原出版 p.228)

 と、あるから、閉経年齢が遅いことも、乳がんの発生に関わっているのだろう。2024年5月13日~5月27日、私は2週間続く月経の出血を経験した。私はこれを、更年期反乱軍の変と名付ける。50を過ぎるといろんなことがある。が、動じなくなるものだ。
 生理休暇など今の職場できいたこともないから、教員は生理痛で授業を休むことなどない。休んだら補講の調整が大変だ。男性の同僚たちも、髪が抜けながら、足を引きずりながら、腰を痛めながら授業をしているのだから、私も流血したくらいで休まない。アラウンド50代の教員には過酷な職場である。私が若いころの50代は、もっとゆったりとした働き方をしていた。

 さすがに2週間出血すると貧血気味になる。共同研究室のパーテーションで区切られたブースで学生たちの相談に乗りながら、気の遠くなるようなめまいを感じた。
 P病院の婦人課に検査に行くと、病変としては診断されない。ホルモンバランスのなせるわざだろう、と思うことにした。更年期反乱軍の流血である。
 しかし、今思えば、体に何か通常と異なる変化が起きている伏線だった。
 

更年期増量


 2020年以降、コロナ禍とオンライン授業の準備と学生の課題のチェックという過密多忙な業務で、夜中までデスクに向かうことが多くなった。気づけば、大学教員になってから、体重が自己ベストと思う数値より15キロ増量していた。ストレスのせいに違いない(ということにしておく)。昼間のホットフラッシュはなくとも、夜中は寝汗で幾度も目がさめて着替えた。これは更年期だ。
 2023年の年末、減量を決心した。私は日々の体重、食事の記録、運動の記録をつけ、筋トレを始めた。半年で10キロ減量した。自己ベストまであとマイナス5キロだ。それだけでも一冊本が書ける。
 今、乳がん関連の本を読むと、肥満はがんの発生率を高め、減量と筋トレはがんの再発防止、抗がんに役立つとある。ダイエットを決意した昨年末には、おそらくすでに乳がんは私に胚胎していた。私の中にある海が、がんに抗する体を準備させたのかもしれない。私の自覚より先に、海が知っていたのだろう。
 
左のおっぱいからのお知らせ

 前期授業と週末オープンキャンパスが終わった7月末、私の左胸が腫れた。
 大きな胸ではないのに、歩くだけで痛い。16年前の出産育児では、よく乳腺炎になり高熱を出した。これも更年期のなせる業だろうか。確かに更年期に体の変化はあるが、更年期のせいだと思わず、違和感を覚えたらすぐに病院に行ってほしい。
 私がそのような行動をする背景には、20年前、55歳のとき乳がんで逝った叔母のことがある。当時、東京で出版社の編集者だった私は、乳がんの本を購入し従妹に手渡した。洋子さんは「純が買ってくれた」と喜んで、本に付箋をつけて読んでいたそうだ。洋子さんの乳がんはリンパ節まで広がり、乳房を切除したものの、やがて再発し骨まで転移して亡くなった。
 母親と同じくシングルマザーになった従妹。私は時々、従妹とその子どもたちと一緒に、洋子さんの墓参りに出かける。
 洋子さんのことがあるから、私は毎年乳がん健診と子宮がん健診を欠かさない。昨年秋もエコーとマンモグラフィーの乳がん健診をして異常なしだった。

 7月30日、私はP病院に電話をし、すぐに乳腺の先生の診療を受けたい旨を話した。
「今日は、乳腺は外科の男性医師しかいませんけど」
 電話の向こうで看護師さんは、外科のA医師の名前を言った。
 P病院の乳腺・一般外科は、幅広く総合的に疾患を扱う外科である。A医師は、私の義父の乳がんや連れ合いの胆嚢炎を手術、切除してくれた医師である。さっぱりとした性格で、無駄がなく的確、腕がよく早い。これまでの関わりから、私が感じていたことである。自分が外科手術をするようなことになれば、A医師にお願いしたいと思っていた。私は早速、その日のうちにA医師の診療室を訪れた。
 私は、A医師に叔母の乳がんのことを伝え、
「乳腺に痛みがあるから乳房を挟み込むマンモグラフィーは辞退したいが、エコー検査はしてほしい」
 と伝えた。
 乳房の触診による診療のあと、すぐにエコー検査となった。私と同世代と思われる女性の検査技師の方が、丁寧にエコーで乳房を確認してくれた。彼女は疑っている。熟練の技師の直観ともいえる技で、彼女は私の乳房に異形細胞を発見した。
 
右のおっぱいがサスピシャス

 再び診療室に戻ったとき、A医師は、左ではなく右の乳房に血流を伴う腫瘍があることを私に伝えた。
「疑わしいから、ちゃんと調べましょう」
 A医師は「午前の診療が終わるまで待っていて」と言い、すぐに針生検の段取りをとってくれた。針生検は、乳房に局所麻酔をして、病変部に針のようなメスを刺し、内刃で患部の一部を切り取る検査である。

 私の頭をかすめたのは、9月最終週から始まる大学の授業と、4年生の卒業制作提出のことだ。もし乳がんということになれば、すぐに対処できるスケジュールを考えなくてはならない。進行表を考えるのは、出版社で働いていた私の思考の癖である。そのことを医師に伝え、もし問題あればすぐに対処したいと話した。
 翌々日の8月1日の朝、MRIの予約をしていただき、針生検をした右胸の内側上部に大きな絆創膏を貼って病院を後にした。その日は、通常通りに午後には大学に戻った。

逃げ切る、闘いきる

 53歳の私は、亡くなった洋子さんの年齢に近づいていた。洋子さんの骨にまで転移したがん。もし同じものなら、私のいのちを食い尽くす時限爆弾のようなものだ。乳がんにも、遺伝性のものがある(この惧れから、私はのちに遺伝検査の受けられる病院に転院することになる)。

I am a  little  runaway.

 私のなかに、乳がんサバイバーの麻倉未稀さんのRunawayの歌詞とメロディーが流れた。この曲は吉屋信子原作の『乳姉妹』という80年代ドラマの主題歌だ(古い)。あれから40年近くが経った。40年はひとりの女の子が初潮を迎え、更年期を迎え、閉経する時間だ。よくここまで頑張って現役で働き、生きてきた。
 私は逃げ切る、闘いきると決めた。なぜなら、亡くなった叔母の横に沈んだ顔で座っていた10代の従弟と私の息子は、今ちょうど同じくらいの年齢だから。



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