乳がんよ、こんにちは 「魔女になる日 さよならおっぱい」2
はじめに
2024年8月27日、私の乳がんが確定した。早期の非浸潤性乳管がん、ステージゼロだ。
昨日9月11日、右乳房を全摘出する予定だった。2日前の9月9日、私は手術をキャンセルした。8月27日の乳がん告知から16日目の今日、私の右乳房はまだ私とともにあり、私と共に湯舟に静かに佇んでいる。今のところ10月28日に右乳房を失う予定だ。
私が乳がんであることを知らされた方たちで、体調を心配してくださる方たちがあるが、まったく何の異変や辛さもなく元気である。月経中や産前産後の方がよほどきついくらいだ。
しかし、早期のステージゼロの非浸潤性乳管がんでも全摘出を選択することにした。乳房の部分切除には、再発・転移予防のための放射線治療を伴う。乳房を全摘出してしまえば、放射線治療は必要なく、癌が乳管の中に留まる非浸潤がんなら転移や再発の可能性も少ない。診断を告げられたP病院外科の診療室で8割方全摘出を決めていたのに、私はその決断をキャンセルした。乳がんには種類が複数あり、ステージごとに判断も異なる。当事者の術後の生活、乳房を再建するかしないかの形成や美容の価値観、医療をめぐる経済格差、地域格差、情報格差、当事者自身の年齢、身体性やセクシュアリティ、ジェンダーに関する価値観も、判断や意思決定の複合的な要素となる。当事者自身ががん告知からの短期間に、自身でディシジョン・メイキングをすることには、困難を伴う。
だから、私は、乳がんと向き合うことになった私自身の生活、選択、痛み(身体的、社会的、心理的、実存的なペインがあるだろう)、その後の恢復への創(きず)という人生のクリエイションについて、オンタイム・ノンフィクション、もしくは私乳癌小説として語ることに決めた。
ただし、これは乳がんの治療と乳房再建の是非やハウツーの話ではない。私は乳がん患者の話や、臓器の話がしたいのではない。
孤独ながん告知と勇敢な決断
がんの告知を受けることとその後の決断は、孤独で勇敢なものだ。医師に結果と治療方針の説明を受け、患者自身がしっかりと疾患とその性質を理解して、医師のサポートを受けながら、治療方針のディシジョン・メイキングを自分自身でしなくてはならない。治療や手術の予定がきまると、家庭や職場など、自分が担っている役割を調整し、どのように生きていくのか、これまでどのように生きてきたのか、自身で決定しなければならない。
乳がんに見舞われた女性の詩人、作家、編集者たちが、どのように生きて、どのように思考したかという声は私を照らした。が、どのように生きられなかったか、という声は、私を沈黙させた。
私は1970年東京生まれの53歳、生物学的性は女性で、高校生の息子がひとりいて、連れ合いがいる。詩やエッセイを書く者でもある。東京の出版社の編集者から教員に転身し、育休復帰の激務の頃、東日本大震災と福島第一原発事故に見舞われた。
2012年、職を辞して、3歳の子と京都の二拠点生活をはじめた。
2024年、京都は12年目。京都の芸術大学の一年更新契約の教員で6年目だ。ただ、それは私を外側から見たハッシュタグに過ぎない。