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江戸前鰻で従妹と子どもたちと快気祝い「魔女になる日 さよならおっぱい」30
従妹と子どもたちとの再会
12月8日、東京のアルカディア市ヶ谷で、詩人の新川和江さんのお別れの会があるため、私は京都から東京へ向かった。
(新川和江さんのことは、この連載とは別稿で記した)
夏の終わりに私の乳がんが発覚してから、20年前に乳がんで55歳で亡くなった叔母の洋子さんのことをずっと意識していた。
私の乳がんが発覚したのが53歳、洋子さんと同じ乳がんなら、私に遺された時間はいくばくもなく、私は急がなければならないのかもしれなかった。
洋子さんの娘である従妹に、乳がんのことをLINEで伝え、洋子さんの乳がんについての記憶を聴いていた。
私は、私がかかった乳がんが、遺伝性かどうか検査ではっきりさせること、結果がわかったら従妹に知らせることを約束した(結局、遺伝性ではなかった)。
従妹はシングルマザーで、東京で小学生と高校生の男子を育てていたから、彼女は私よりもっと死んではいけない人だった。
私のり患した乳がんが、洋子さんと同じもので遺伝性ならば、彼女も気をつけなくてはならない。
私は、そのような責任感から、従妹に乳がんについて報告をしてきたつもりだった。
従妹がシングルマザーになってから、従妹とその子どもたちには、親類といえる人は私くらいしかいなかった。
待ち合わせをしたのは、新川和江さんのお別れの会のあるアルカディア市ヶ谷の鰻屋の前だ。
従妹は、私の姿を見るなり泣き出して、抱きついてきた。
センチネルリンパ節生検のあとにしびれた右腕が少し痛かった。
「心配していたんだよ」
その言葉で、従妹に負担をかけていたことを思い、私は詫びた。
「ごめん、ごめん。もう大丈夫なのよ」
LINEですでに伝えていたが、
乳がんが非浸潤性乳管がんであること、それでも右乳房を全摘したこと、浸潤や転移がなく全摘で治療は終了したことなどを、改めて話した。
子どもたちは、泣き出す母親を黙って見ていた。
従妹は、子どもたちの前で泣くことはあるのだろうか。
「ね、快気祝い。鰻か洋食、どちらがいい?」
私が言うと、子どもたちは迷わず、鰻屋「うな誠」の前でメニューを見だした。
3年ぶりの江戸前鰻
京都でいただく鰻と、江戸前の鰻は違う。
京都でいただく鰻は小ぶりで腹開き、蒸さずに焼く。
江戸前鰻は、太くて背開き、一度蒸してから焼くのでふっくらとしている。
東京出身の私は、江戸前鰻が好きだった。
江戸前鰻をいただくのは、3年ぶり(前回は、浅草竜泉の大和田の鰻)。
東京にいるとき、客人が来るとマンションの近くにあった宮川の鰻を出前した(江戸前鰻といっても、記憶に残る数える程度の経験だ)。
快気祝いといっても、私が7歳お姉さんなので、私の「ごち」である。
家姉長制だから、だいたいこうなる。
「働いてお金が稼げる」ということは、ありがたいことだ。
10歳と17歳の男子は、ボリューミーな鰻重を黙々と平らげ、早めのお年玉に喜び、従妹と私はひつまぶしをいただいた。
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20年前の医療従事者たちへのつけとどけ
従妹は、20年前、叔母の洋子さんが乳がんだったときのことを話してくれた。
洋子さんの乳がんは、発覚したときはすでに進行していて、乳房とリンパ節をごっそり切除したのだが、ほどなくして再発、骨にも転移していたのだという。
洋子さんもまたシングルマザーで、ふたりの子どもを育てるために掛け持ちで仕事をしていた。
自身のために乳がん検診に行く時間も費用もなかったのだろう。
地域のクリニックでは対応できず、聖路加病院を従妹に勧めたのは私だったらしい。
しかし、費用が高すぎてシングルマザーの洋子さんには難しく、従妹が東京の別の国立の病院に転院させたのだという。
手術を早くしていただくために30万円を医師に渡した話は覚えていたが、ほかの医師、看護師、事務の方に渡したお金は合計で100万円にのぼるらしい。
東京都心の病院は、検査の予約、手術の予約もずっと先になるのだという話は聞いたことがある。
「お金をわたせば、よい抗がん剤を紹介してもらえる。手術の順番を早くしてもらえる」
大病院の患者たちは、がんの不安からそう思っていたのだという。
20年前のコンプライアンスはどうなっていたのだろう。
洋子さんは末期癌で、必要なのは緩和ケアだった。
20代の派遣社員の従妹の貯金から100万を受け取れるのは、どんな方たちなのか。
洋子さんは、アガリクスががんに効くという話にすがって所望した。
従妹は当然そんなことは信じていないのに、アガリクスにもたくさんのお金を使った。
洋子さんは生きたかった。
子どもを遺して死ねないと思っていた。
ただそれだけだった。
もし洋子さんが生きていたら、今日の鰻は娘と孫と三世代で食べただろう。
豊かでなくとも、祝いごとや子どものために、お金を惜しまなかった洋子さん。
私が人を喜ばすときに「きっぷがいい」のは、祖母譲りであることと、江戸っ子ということなのだが、叔母譲りでもあったらしい。
そのとき、私の意識の深くにいた洋子さんの気配を感じた。
私は洋子さんの視線になった。
洋子さんが過ごせなかった、娘と孫との時間を私が過ごしている。
洋子さんが生きられなかった時間を、私が生きていた。
片胸の魔女になった私は、死者の声を感じとる巫女にもなれた。
連載21で、手術が終わった病室で、センサーで水が流れる洗面台から、ふいに水が流れ出したことを書いた。
そこに叔母の洋子さんの気配を感じたという、非科学的な話である。
従妹の17歳の息子は、きっと、そこには私の祖母のトキさんもいたのではないか、と言う。
「純ちゃんを守る人、勢ぞろいだよ」
従妹はそう言って笑った。
(それなのに、なぜ私たちの血縁者たちは、一緒にいると辛かったのだろうね。差別や時代のトラウマがまだ子ども、若かった私たちを傷つけて、私たちは家族を頼らず自分で生きざるを得なかった。私たちは、なぜこんなに女ひとりで抱えて、踏ん張って生きてこなければならなかったんだろうね)
私はそう思ったが、言わなかった。
「次は、一緒に洋子さん、トキさんのお墓詣りに行こうね」
私たちはそう言って別れた。
京都の人に叱られるが、江戸前の鰻は、京都よりうまいし、気前がいい。
どうだ!といわんばかりに、どーんとダイナミックに載った鰻にたれがたっぷりかかっている。辛気臭いこと、ケチなこと言わずに、腹いっぱいに食え。
それが江戸前ってもんよ。
(京都の鰻屋さんは値段が書いていないし、いちげんさんが入りにくいので、実は高島屋の地下街と、祇園の日本料理屋でいただいたことしかないのだが。鰻はちょこっと上品に載っていたり、卵の下に隠れていたり、つまり吝嗇だ。辛気くさい。卵をいただくのか、鰻なのか、はっきりさせようか。それにたれが少ない。これだから東京の田舎もんは、と言っておくれやす)
アルカディア市ヶ谷に宿泊した私は、翌日、京都にいる連れ合いと息子のために、江戸前鰻をテイクアウトして新幹線に乗った。