乳がん確定後の迷い「魔女になる日 さよならおっぱい」13
*この連載は、時系列を崩しながら、オンタイム・ノンフィクションとして今書けるところから書いていこうと思います。いずれ編集して時系列を入れ替える予定です。
乳房の部分切除か、全摘出か。もしくはラジオ派焼灼は可能か。
8月27日、P病院で非浸潤性乳管がんの診断を得た。
8月29日午前中、P病院で造影剤を入れたCTを受け、リンパ節ほかに転移がないか調べる。お昼前に結果を出してくださり、転移はないので、予定通り9月10日に入院、9月11日に手術ということになった。
私は8月27日にがんの診断をされてから、さらに乳がん関連の専門書やインターネット情報を調べ、必死のリテラシーを重ねていた。
部分切除か、全摘出かというのが、乳がんの標準治療だが、2023年7月に切らないがん治療として、ラジオ派焼灼療法が早期乳がんに適用できるという情報を得ていた。医療は日進月歩だが、新しい治療法が認可されるまで多くの治験があり、認可されてからもエビデンスが重なるまでに何年もかかるだろう。
ラジオ波焼灼療法(RFA)が早期乳がんにも適応拡大されました(第1報)|一般社団法人 日本乳癌学会
その承認条件は「腫瘍径1.5㎝以下、腋窩リンパ節転移および遠隔転移を認めない限局性早期乳がん」とある。そして、関西で適用できる病院は大阪にある2院(大阪公立大学医学部付属病院、独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院)である。いずれも、京都市の端にある私の家からは片道2時間近くかかる。
私は、P病院のA医師に、私のがんはラジオ派焼灼では難しいのか訊ねた。
「ラジオ派にするには、少し大きい」
A医師は答えた。腫瘍は2センチと言われていたから、ラジオ派焼灼のできる1.5センチと0.5ミリしか違わない、そう私は心の中で思った。本当に2センチの腫瘍なら、切らない選択肢はないのだろうか。
いずれにせよ、大学の勤務スケジュールで考えると、9月末の授業スタートの前に入院手術の進行で進めざるを得ないと思っていたため、改めて大阪の病院に予約してセカンドオピニオンを求めると、9月11日の手術はキャンセルになる。仮にラジオ派焼灼療法が適用できたとしても、部分切除と同じように、遺された乳腺に放射線治療が必要となる。そのために30日大阪に毎日通うのは、働きながらでは不可能だ。
東京都心に住んでいたころなら、もっと複数の選択肢があったはずである。私は、医療の地域差を実感した。
ともあれ、私は今京都で家族とともに暮らし、働いている。この生活を維持しながら、がん治療をしていかねばならない。そして、新しい治療法が自分に適用できるのか、ベストなのかどうか、何を優先順位とするのかを決定するのは、私自身だった。
さらに私は、P病院で遺伝性乳がん卵巣がんの検査ができるのか、A医師に訊いた。アンジェリーナ・ジョエリーは、この検査で陽性のため、両乳房と卵巣を切除している。
遺伝性乳がん卵巣がん症候群の保険診療に関する手引き|一般社団法人 日本乳癌学会
私は、自分がり患した乳がんが、遺伝性乳がんかどうか知りたかった。叔母のいのちを奪った乳がんと同じものなのかどうか、遺伝検査などできない20年前の叔母の乳がんが、私や従妹に遺伝する可能性があるのかどうか。
もし、遺伝性なら、シングルマザーの従妹に知らせなくてはならない。彼女には未成年の子がふたりいて、私よりもっと死ねない人だから。
「ここではできない。遺伝検査をするなら大学病院で検査と手術を受けないと。遺伝検査はカウンセリングができる病院でないとできないんだ」
A医師はそう言って、遺伝検査はとても慎重に行わなければならないこと、家族間の差別やトラブルにも結び付くので、カウンセリングフォローのできる体制のある病院である必要があると説明してくれた。がんが遺伝性であるかどうかを知らないでいる権利が、子どもたちにもあるのだという。
子どもが女子の場合は、乳がん、卵巣がんだが、男子の場合は、前立腺がんの遺伝リスクとなる。
しかし、もし遺伝性だということを知っていたら早めに対処できるのではないか、いや、対処したところで、がんは予防しきれるのだろうか。あらかじめ用意されたDNA、寿命だとしたら。確かに難しい問題だった。
私が遺伝性を疑ったのは、叔母とほぼ同時期に乳がんにり患したからである。
A医師は、手術当日までに部分切除か、全摘出か、決めてくれればいいと繰り返した。
私はそのときでも7割方、全摘出の心づもりでいた。もし遺伝性なら、両乳房の切除も厭わない覚悟だった。それなのに、切らないでラジオ派焼灼療法を検討しようとした、私のなかにある何かについて考えた。
診療室を出ると、看護師の方が出ていらしてお話をしてくださった。
ご自分の息子さんも芸術大学に通っているのだという世間話から、
「ご主人が全摘出に反対される方もいるんですよね」とおっしゃる。
「いえ、私の体なので」
私は反射的に答えた。私の体の主人は私で連れ合いのものではない。その感覚は連れ合いとも共有できていた。私の迷いはそこではない。では何なのか。私はそのモヤモヤを抱きながら入院予約をした。
少年の胸のともこさん
私は、P病院を出たその足で、乳がん経験者の年上の友人、ともこさんのところに向かった。ともこさんはキッチンHという食堂をしている女性である。その食堂ではライブ、読書会、映画会などが行われ、地域市民の居場所となっていた。
ともこさんが乳がんで20年前と9年前に2度、両胸を手術をなさっていたこと、KM病院で治療をしたことを、以前にうかがっていたのである。
キッチンHは、食堂だけど飲食店をしているわけではない。作り手や生産者の過程がわかる食材をつかい、合成添加物をできるだけ避けた手作りをしている。原発を阻止した祝島の魚、パレスチナのオリーブ、有機農業やサステナブルな農業によってつくられた、マスコバド糖、バランゴンバナナなど、ひとつひとつ、ともこさんのいのちへの眼差しとリテラシーで選び取られたものしかなかった。そのともこさんが選んだ医療、医師には、理由があり、信頼できるだろうと思ったのである。
私がともこさんと知り合ったのは、2011年、東日本大震災原発事故のあと、3歳になったばかりの息子と京都に保養滞在(この年、東京と京都の二拠点居住)していたころのことである。原発母子避難の私たちを気遣って、クリスマス会に呼んでくださったり、発熱をした私に弁当を届けてくださったりしたのである。
40歳を過ぎてから子連れで京都にやってきた私は、原発避難の母子の方たち、その方たちの周囲に集まってきた京都の方たちと関わることとなった。私は職業経験と行動力から、私自身が母子避難者であっても、私が支援者だと思われてしまう傾向にあった。一方的に求められ、与える関係とはなるが、私自身が困難にあるときは私をサポートできる人は少なかった。みな余裕がなかったということはあるだろう。
京都では、要求された役割を超えて友人として私を思いやり、心にかけてくれる女友達が多くはなかった。そもそも子育てをして働くだけで、女性たちは精一杯で、自分のための休息の時間すら取れないから、「ママ友」以外、新しい友人はできにくい。子どもが保育園を卒業すれば、保護者同志の関係も終了だった。
50を過ぎると、同じ立場、同年代の女性同僚は職場に多くはない。大学教員という職業は、まだ女性比率が低い。かつて東京で働いた編集部や中高一貫校のように、集団のチームとして「同じ釜の飯を食べる」という比喩のような同僚性に薄く、ときにギリギリの危機に見舞われる仕事という状況のなかで、背中を預け合うような関係ではないから、崖っぷちから転がり落ちることになる。(青年期の生身の若い人たちと関わるのは、関わる大人もリスクに見舞われることがある。それは、医師やカウンセラー、小中高教員も同様である。チーム、同僚性、スーパーバイズ、ケーススタディーなどが重なり、やっと組織としての経験値が高まるはずだった)。個人事業主だと言われてしまえば、それまでのことだ。雇用契約も個々結ばれるから、ある意味、助けあうのではなく、競争原理が働くひとりひとりが立つ職場でもある。私は「学生にとって」という視点に立つことで、何とかまだ留まることとができている。ただ、私自身のキャリアや意欲を生かす機会は得られず、東京で働いていた充実感や、私自身をバックアップしてくれる理解者やメンター、サポーターはなく、私はひとり立っていた。粛々と学外で学び、資格を取得し、学生や私自身のスーパーバイズを求めるネットワークを創った。
生活や仕事の経験を積んできた成熟した大人として、痛みを分かち合い、ユーモアをもって「おしゃべり」をしていた、かつての東京の同僚や先輩、詩人の友人たち、同級生たち、フェミ友たちにどれだけ支えられていたのかということを、京都に来てから幾度も思った。
42歳で前職を辞めて東京から京都に来て、何の縁故もなく公募で今の大学に着任した。しかも、京都に来てから幼い子どもを育てながらフリーランスで働き、別の大学講師の仕事を始めたのが47歳、子どもが高学年になった49歳で、全くの公募で、知り合いのひとりもいない現在の大学に再就職をしたのである。
半分が移民の東京は新しい人に気遣う、入りやすい土地である。正反対に、よそ者に警戒的な京都という地場で、私自身のこのきつい状況を、心的に多層に支えてくださっていた京都の人々は、地域活動や取材活動のなかで出会った市民、弁護士、医師、シンガー、アーティスト、僧侶、他大学の教員、専門の研究会、女性議員の友人、知人たちだった。
そんななかに、ともこさんとキッチンHがあった。ここは、地域で良心、志をもった人たちと出会う、陽気であたたかなハブのような場所だ。
ランチタイム前のキッチンHは、まだ人がいなかった。私はランチタイムの準備をするともこさんのキッチンの前にあるカウンターで、乳がんと診断されたこと、部分切除か、全摘出か、10日ほどで決定しなければならないことを話した。
ともこさんは、20年前、1度目の乳がんは非浸潤がん、9年前、 2度目の乳がんは浸潤子葉がんだった。ご両親も祖父も叔父もがんで亡くなったという。
「私なんて、両方全摘出よ。少年の胸なの」
ともこさんはそう言って笑った。
私は叔母が乳がんで亡くなっていること、部分摘出でもし再発したらと考えると、全摘出の方が私には不安が少ないこと、全摘出すれば乳房の再建ができるらしいが、そもそも再建手術がしたいのかどうかについて、思案していることを話した。
ともこさんは、2度目の乳がんは部分摘出も可能であったけれども、ご自身で全摘出を選択していた(この話は、改めてしっかりインタビューをしたいと思っている)。ともこさんは、自分で手術法は決められるのだ、ということを話してくださった。再建をするつもりもなかったという。
「右胸にシリコン入れても、左胸は下がっていくわけでしょう。右胸だけ叶姉妹みたいに張っていてもなあ」
私がそういって、右手で右胸を持ち上げ、左手で左胸を下げると、ともこさんは楽しそうに笑った。
「おっぱいは、役割を終えたんだよ」
そう言われて、私は噴き出した。
「そうだよね。50代でもう閉経する。哺乳類のおっぱいは母乳のためにある。もう子ども産むことはない。それなら、なぜ女性は再建をしたいのか」
「谷間がほしい」
そう言われて、私はまた噴き出した。
「だれのために」と、私が聞くと、
「男のため」と、ともこさんは言って笑った。
「いらない。私もともと谷間ないもん」
私は、インスタグラムで見た、両胸を切除した女性のことを話した。
「両胸を切除した女性が、真っ白なキャンバスのようになった胸に、花のタトゥーを入れて、上半身裸で楽しそうに走っているの。きれいだった。私は、叔母が乳がんだったから遺伝子検査をしたい。遺伝性なら、両胸を切除して、ニキ・ド・サンファルのタトゥーかアートメイクを入れて、藍染のさらしで胸を巻きたい」
「ね、私の主治医のN先生に一度相談してみて。KM中央病院の先生だけど、近くのKM・A病院に週に一度来るから」
ともこさんに言われて、私はスマートフォンで、KM・A病院とN先生を検索した。
「この先生?」
私はスマートフォンの画面に写った、穏和そうなお顔の写真をともこさんに見せた。
「明日、KM・A病院にいらっしゃるね。電話してみるわ」
私は、そう言ってともこさんが用意してくれた食事をいただいた。
KM病院との縁
それが、私がセカンドオピニオンをうかがい、執刀医、担当医師になっていただくことになった、KM中央病院の乳腺外科長、N先生にお世話になるきっかけだった。
実は、KMという医療団体―京都民医連、無産者医療を掲げて立ち上がった全国民医連の京都の団体である―は、2012年、私が原発母子避難の方たちと関わりながら、被曝を懸念する避難者の子どもたちの甲状腺エコー、血液検査等の受け入れ先を方々探していたときに、力になってくださった医療団体である。
以来、「避難者集団検診」の活動を、KM病院の医師、医療従事者の方たちとともに、10年以上継続している。前会長、現会長ともに、大変お世話になっている。
私自身を助ける縁が、12年の活動のなかで、立ち上がってきた。
トップ写真は、ニキ・ド・サンファル作品 逆立ちするナナ 1967