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セカンドオピニオン「魔女になる日 さよならおっぱい」14

8月30日(金) KM A病院 N先生を訪れる


 10日後にP病院に入院、9月11日には乳がんの手術をしていただく予約をしていた私は、キッチンHのともこさんの主治医、KM中央病院の乳腺外科長のN医師が地域のA病院にいらっしゃる金曜日に予約をした。
 ともこさんに相談したのが前日の木曜、翌日に訪問できたのは、勤務先の大学が夏休みの授業期間外であったことのほか、運と縁が重なったとしかいいようがない。

 A病院はもともと診療所と呼ばれていたが、現在は165床、職員約330名 常勤医師22名、救急指定もされた地域の中核総合病院のひとつだ。
 前日、ともこさんに相談したあとに、すぐにA病院に電話をした。
 P病院で乳がんの診断を受け、10日後に入院手術を控えていること、全摘出か部分摘出か決めなくてはならず自分で取材調査をしてきたこと、N先生に担当していただいた乳がん経験者の友人から、N先生に相談することを勧められたことを伝えた。
 受付事務の方は、乳腺外来の看護師の方と代わってくださった。私がさらに詳しい状況を伝えると、金曜のN先生の乳腺外来13時45分に予約を入れてくださった。
 正式なセカンドオピニオンのための資料は準備できていなかった。手元にあるのは、P病院の診療室でA医師に許可を得て録音させていただいた説明を文字起こししたもの、PCの画面で見せてくださった、エコー、生検、MRIをスマホで撮影した画像のみだった。

 N先生は、乳腺専門医、その中でも指導医だった。京都府に乳腺専門医は69名、そのうち指導医は半数の35名である。
 診療前の書面を書いている早々に、看護師の方に診療室に案内された。
 私は、N先生に「よろしくお願いいたします」と挨拶をした。
(私はいつも診療室でこのような挨拶をする。父母と弟がスポーツ選手だったからだろうか)。N先生は椅子をすすめてくださり、私は先生と向き合って座った。
 先ほどの看護師の方が、背後の壁際に座っている。KM病院でいつも驚くのは、看護師の方が診療室で一緒に話を聞いていてくださること、診療室を出たあとにさりげなく、気持ちを聴いてフォローを入れてくださることだった。
 P病院のA先生もそうだったが、N先生も私より年上で、キャリアが長いということは、私にひとつの信頼をもたらしていた。
 乳腺や婦人科は、女性の医師を希望したいという気持ちがあるが、プロフェッショナルとしては、手術の経験、専門性が重要となる。
 しかし、「患者」となった私が、一定期間をお付き合いすることになるがん治療とその医師の選択は、それだけではなかった、ということを実感したのが、N先生とKM病院との出会いだった。

 私が普段関わるのは、若い学生たちや自分より若い同僚たち、高校生の息子、同世代の夫。私も含めて、誰も彼も社会的、生活的にはそれほど器用ではなく(文芸、芸術系ですから)、社会経験、経済的自立と安定は、大人の成熟には遠い「アーティスト」たちだ。だからこそ、若い方たちの作品制作に向き合い続けることができる。そうでなければ、若者たちの見果てぬ夢を諦めさせるのではなく、描き続けるようにサポートすることはできない。私たち教員自身も、見果てぬ夢を見続ける、タイパ、コスパの悪い努力家たちだった。
 ある意味成熟とは遠い環境のなかで、自分が一番年上になってしまう私は、頼ったり、相談することができずに(いや、相談しても求めたものとは異なるものがでてくるのだ。これは経験や専門の違いだ)、働いてきた京都での生活のために、自分のなかにストレスを抱え込むことが習い性になっていた。

 だから、多分年上で専門医としてのキャリアをお持ちの先生の柔和なお顔、目尻の皺に向き合ったとき、「オッパ」と思ってしまったのだろう(「オッパ」は、韓国語で「お兄さん」のこと)。

手順を追ったエビデンス主義

 N先生は、一通り私の話を聴いたあとで、非浸潤性乳管がんの場合は、基本的にはミルクの管の中にしかがんはいないので、血液とかリンパ管とか、そういう流れのあるところにはいかないこと、だから切除したらおしまいである、ということから話を切り出した(これは、P病院と同じ)。

「問題は、その切除範囲をどう決めるかが難しいんですよね。我々が 材料として大事にしてるのは、どこまでの範囲に(がんが)あって、どこまで取らなきゃいけないかっていうことですよね。だから部分(切除)なのか全摘なのかというよりも、あなたはここは取らなきゃいけないので、だからこういうふうにこの部分はなくなりますよ、じゃあ形はこうなると思いますよ、ということ。で、こういう形になるけどもいいかな、部分切除でとか、やっぱり全部取って再建した方がいいかなとか、そんな話だと思います」

 私は、私自身がまさに思案していることに言及されて、
「そうなんです」と返答した。
「もう一つの材料は、乳頭に(がんが)すごく近かったりすると、ミルクの管の中からこう伝わっていくので、乳頭が残るかどうかは、一つ問題ですよね。基本は乳頭までの距離が二センチあれば大丈夫ですけども、2センチ以内だと 80%以上の確率で乳頭内に癌が侵入している可能性がありますよ、と言われる。
 例えば乳頭の裏のところを術中に、がんがいないかどうかを調べる術中病理診断とか、そんなんができれば安心です。術中に乳首をの裏をめくって、乳頭裏をカットしてそこをチェックしてっていう感じ。
 だから問題は、MRIのお写真を見たときに造影剤が入っているところ、白く光っていた範囲が、どの乳腺の房をやっつけているか、それがんなので、そのふさは最低限取らなきゃいけない。部分切除で取るのなら、切り端にがんが残っていないかどうか見ないといけません。
 どうしても(乳房を)温存という方の場合は、乳頭の裏や切り端のところを術中の迅速診断をして、それで、切り足しをするかどうかですね。
 その判断がないと、手術が終わって、いや実は残ってたんや、もうちょっと取らして、とかいうことになると、もう一回となる。私、仕事の休みが今だからやってほしいって言ってお願いしたのに、また手術台載るの、って。
いえいえ大丈夫、早期のやつやから放射線当てとくぐらいで大丈夫だからという、そういうこうもやっとした話が残ることが結構あります」
 
 N先生のお話は、乳がん手術で乳房の部分切除をするにしても、がんが取り切ることができるか、術中に乳頭や切り端を病理診断する必要がある、ということだった。つまり、MRIやCTの画像だけでは、本当にがんが「2センチのここだけ」かどうかはわからない、おっしゃっているのはそういうことだった。N先生は続けた。

「あとちょっと気になるのは、以前、コロナの後しんどいって来院したことがあったでしょう(2023年秋、私はコロナ感染症にかかり、咳が長引くのでKM A病院の後遺症外来として、内科を受診している)。
 そのときに、母方のおば様が乳がんということでしたね。4分の1、同じ遺伝子のセットを持っていらっしゃるので、遺伝子の検査HB OCという遺伝性乳がん卵巣がんの保険適用です。部分切除で(乳房を)遺すと、一般の方が残っている乳房が乳がんになる確率はだいたい10%なのですが、遺伝子の変化がある場合は、17%~25%、倍ぐらいの確率になります。それをひとつ、全摘にするかどうかの判断材料にされる方もいらっしゃいます。
 遺伝子の変化がない方でも1割ぐらいは再発があるので、再発のリスクを下げるために放射性治療があるわけですね。ところが、どうしても遺伝子の変化がある方の場合は、同じ乳房にまた乳癌ができる確率が、だいたい倍ぐ らいと意識していただいていいです。そのことを考えて全摘を選ばれる方もあります」
 少し驚いたことは、以前に受診したA病院の内科のカルテが、別の診療科にかかっても共有されるということだった。この病院での初診は、コロナ後遺症外来だったにもかかわらず、これまでの病歴や生活環境、家族などについて、丁寧なヒアリングを受けたことを思い出した。


診療記録は録音。資料もすべていただくようにした。

「それで、KM病院では、その遺伝子検査はできるのですか」
 私が訊ねると、先生は「できます」とおっしゃった。
 私は、事前に調べたKM病院のHPのN先生の紹介ページに、N先生が、日本遺伝カウンセリング学会に所属しているという記載があることを思い出していた。

 その後、部分切除の場合、放射線治療が30日とは限らず、15回で実施する方法もあること、部分切除後の放射線治療で皮膚がなめし革のようにカチカチになる方もいて、乳房を再建しようとしたときに困難があることなどを、N先生は説明してくれた。
 
「ただ、全摘のマイナス面は、皮膚の下で剥がされた部分は感覚が違う。違和感が残る方もあるようです。手術することは、どこかでデメリットがあると思います。だからお話戻しますと、ステージゼロで非浸潤癌なんで、取れば終わりだけども、取る範囲をどうしましょうか、取る時に乳頭大丈夫ですか、切れ端大丈夫ですか。その辺をどう判断されるのかっていうことと、MRIを見たところで、どれぐらいが切除範囲として取らなきゃいけない範囲で、それを取ったらどんな形になると思いますかっていうのは、聞きたいところですよね」

「そうです。それがちょっとわからなくて。P病院で、AIシュミレーターなどで、切除後の形は見られないんですか、と訊いたのですけれど。
 叔母のことがあったので、全摘の方がいいですし、その方が(乳房を)再建しやすい。部分摘出だと30日毎日大学病院に放射線治療に通えないかもしれない。遺伝子の検査がP病院でできなかったんです。それに、全摘か部分かという判断を、私がするのは結構難しいです」

「そうです。だから結構ね、デシジョンエイドが必要で。実際そういうサイトもあります。自分が一緒にやっている形成外科の先生が、(乳房)再建のためのホームペー ジを作っています。厚労省のワーキンググループと一緒に 作ったようです。ご縁があって、京都に月1回きて、うちで形成手術をしてくれるんです。その先生が、乳房再建と乳房切除のディシジョンエイド、意思決定支援のツールを作っています。それを見ていただくと、ご自身で、自分にはこれが大事、これが大事とチェックしながら決めていけると思います」

 私は、8月末に降ってわいたような乳がん告知で、懸命に乳がん学会の治療方針の本に付箋をつけて読みながら、部分切除か全摘出か、自分で決めなくてはならないプレッシャーを自覚するに至った。
 がん告知のプレッシャーと混乱、医療情報の混在のなかで、自己決定をするというのは、多くの患者にとって困難なことだろう。

 そして、N先生は、ご自身の妻も20年前に乳がんであったこと、そのころ、自分は乳腺外科ではなかったことを話された。
「若いころ、妻が乳がんで、死んじゃうのかな、と思って見つめていた。書店で乳がんについての本を立ち読みした。医者だってそうなんだから」

 私は少し「じん」とした。
 「まあ、大丈夫だよ。あなたはたくましいから」
 と言っている私の連れ合いとは、また異なるまなざしだ。
 がんは、今後も予後を長年経過観察することになるので、医療機関とは長いおつきあいになる。共に闘うのは誰か。長い病院づきあいがはじまる。
 それなら、医療従事者たちと楽しく、信頼関係をつくって付き合いたい、楽しみたいと思った。「患」に私を所有されるのではなく、私が「患」を所有し、手放すのだ。そのプロセスは長く、人生は短い。

 N先生は、ひとつひとつ根拠を積み重ねていくことを大切にしている。
にわかに乳がんについて調べ始めた素人の私にわかるように、言葉を選び、楽しい比喩を使い、絵を描いて説明をしてくださった。また、がんを告知された患者が、どのように不安と葛藤を抱くか、こちらが言わないのに、私の深層で揺れている海を察したうえで、背中を支えるように説明をしてくださっていると感じた。(オッパ!)
 10日後に結婚式を控えた女性が、急にほかの人に乗り換える(という経験は私にはない)ように、私は転院を考え始めていた。

「臓器ではなく、人間として向き合ってくださってありがとうございます」
 私がそう言うと、N先生ははっとされたように見えた。
 実はKM病院とは、東日本大震災原発事故以来、原発避難の子どもたちの検診実行委員会を共にしているお付き合いであること、いのちは平等という宣言、無産者医療にしびれたのだ、という話をすると、先生は笑った。
「まあ、料金は800円くらいだ」
 1時間ほどの診療相談の時間だったが、確かに費用は申し訳ないくらい安価だった。タイパ、コスパの悪い、私たちと同じ仲間ではないか。

 その日、私は来週もう一度、正式なセカンドオピニオンの資料を揃えてうかがってよいか、N先生にご相談した。資料とは、P病院で丁寧にとってくださったエコー、病理診断、MRI画像である。 
 
 P病院はすべての資料を出してくださった。
 私はそれを携えて、9月5日の金曜日、もう一度A病院のN先生のところにうかがった。その日は、部分切除の場合と全摘出のケースについて、遺伝子検査とそれにかかる時間等についても説明をしていただいた。ラジオ派焼灼法は、やはり私の腫瘍には難しかった。

 私は、その日、
「こちらに移りたいです。P病院にお話してきます。先生、よろしくお願いいたします」
 というようなことをお伝えしたように記憶している。
 P病院の手術が6日後に迫った週末のことであった。 

©写真 高橋保世
 (2枚の写真はKM A病院ではなく、KM中央病院の乳腺外科外来診療室。N先生のA病院外来は金曜で、私は授業があるため、月曜夜のKM中央病院外来にうかがうことになった)

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