詩人は海に還った―新川和江さん
今日は、詩人の中村純として書きます。
八月に新川和江さんが九五歳で海に帰還された。新川さんが地上にいてくださったことは、まだ言語化されないみえない詩を信じられるということであり、人間の明るさを信じられるということだった。
新川和江さんの詩との出会いは中学一年生のころ。集英社のコバルト文庫で新川さんは世界の詩のアンソロジーを編んでいた。駅前の書店で新川さんの編集した二〇〇円か三〇〇円の文庫を買った私は、詩の世界を広げていった。
埼玉県と東京県境から、都心まで中学に通っていた私は、池袋の西武デパートにある「ぽえむぱろうる」という詩の本の専門店に立ち寄りを始めた。そこで出会ったのは、新川和江さんと吉原幸子さんが創刊された『現代詩ラ・メール』。一三歳か一四歳の私には、大人の女性詩人たちが作った詩の雑誌はまぶしい憧れだった。
新川さんは、詩人としてだけでなく、私には編集者として立ち現れていた。訃報を聞いたあと、朝日新聞の記事で、バーネットの『ひみつの花園』(偕成社)の翻訳が新川和江さんだったことを認識した。私の親は絵本を買って読んでくれるような余裕のない人たちだった。自分で本を読めるようになった五歳のときに、祖母が買ってくれた初めての物語がこの本だったのだ。新川さんが少女たちへ伝えたことは、たとえ逆境にあったとしても、明るさという強さをもち、自分の信じる憧れや美しさを耕し続けることで、自分を励まし、周囲すら変えることができるというメッセ―ジだった。
新川和江さんは、2005年に私が「詩と思想新人賞」をいただいたときの選考委員である。3度目のノミネートで受賞を逃していた私に、「あなたは欲がないから」と笑っていた。アピールが足りないとおっしゃりたかったのだろう。確かに編集者として仕事をしてきた倣いで、存在を消すように黒子になることはうまくなっていたが、自身を押し出すことが得意ではなかった。初めての詩集『草の家』と第二詩集『海の家族』は、新川さんが帯文を書いてくださった。
「生きること、愛すること、おのれのアイデンティティーを問うことがそのまま詩になり方法論にもなっている、したたかな新人の登場である。新奇な書法を求めて行き暮れた現代詩人たちを、この詩集は立ち止まらせ、振り返らせずには置かないだろう。水の湧くところを久々に思い出し、初心に戻ってそこから出直さねばならぬことに、詩人たちは気づくだろう」(『草の家』帯文)
「十一週にも満たない胎児が、すでに人格をもつ自由な人間として、その母親となる若い詩人に、このようにいきいきと美しく描き出されうたい出されたことが、かつてあったろうか。〈ちいさな君〉の出現もさることながら、〈世界に素足で降り立っ〉た新しい母性の誕生が、私を驚かせてやまない」(『海の家族』帯文)
新川さんは、いのちそのものに明るく平明な美しさを見出し、信じ、詩を謳いつづけてくださった。その肉体は、殺戮の続く地球から、もっと広いいのちの根源の海に還っていった。
写真は、12月8日に東京のアルカディア市谷で行われた「新川和江さんのお別れの会」。