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片胸の日常「魔女になる日 さよならおっぱい」29

退院後、ライブに行く

11月9日、乳がん手術で退院1週間後の私を、京都の魔女姐さんたちがライブに誘ってくれた。
連載13に登場した、乳がんサバイバーの先輩の「少年の胸のともこさん」のお店、キッチンHで、よしだよしこ&アカリトバリさんのライブがあるのだという。
女性詩人の詩を謳うよしだよしこさんのことは、動画で拝見したことがあった。「砂の唄」という歌が好きである。

よしだよしこさん

魔女の姐さんたちは、「純さん、魔女になっておかえりー」と私を迎えてくれた。
誘ってくれたNさんは、四半世紀前に、私と同じKM中央病院で、婦人科系の20時間におよぶ手術をして生還した。
学生のころから、東九条のオモニたちの識字学級に手伝いに行っていたNさんは、のちに在日コリアンのパートナーとの「国際結婚」、二重国籍が許されない日本の制度のなかで、産まれたお子さんを手がかりに、さらに社会への視座を深めていく。人の尊厳が踏みにじられることがあれば、行動せずにはいられない、リスペクトすべき魔女の姐さんだった。
そのとき産んだお嬢さんもまた、大切な仕事をする社会学者になっている。

乳がんから無事に帰還した私に深く自覚されたのは、時間といのちの有限だった。
会いたい人、会うべき人、すべき仕事をし、有限の人生を愉しむ。
私には無駄にされる時間も、相手のコンプレックスでマウンティングされたり、競争にさらされたりする時間も、残ってはいなかった。
(40、50代を過ぎて、人と比較しなければ、立っていられない人の劣等感や不安、自立してこられなかった人生や目つきは痛く、あてられるときつい。私は嫉妬から割と自由な性格だから、相手の問題をぶつけられることがある。実はそれがとても嫌いである。嫉妬も憎しみもご免こうむる)
魔女の姐さんたちも、そうやって生きてきたから、大切な仕事と友人たちとだけ過ごしているのだろう。

いつか、私たちがここでこうして集い、歌と音楽を聴き、人の尊厳が踏みにじられないように祈りのように願った意識、時間、人も喪われていくのだろう。
それでも、100年後もこの場所がそのことを記憶する。
ここに別の人たちが集う日が来ても、その人たちも、きっと人の尊厳が踏みにじられないように願うだろう。
ここにヘイトスピーチをする人は来ない。
そのことは確信できた。

日常がまわりはじめる

11月11日に病理検査の結果がでて、
「転移も浸潤もないです。治療はとっただけで終了。ドラマは起きないよ。おめでとう」
医師のN先生に言われてから、私の意識の底の海にあった不安が引き潮のようにひきはじめた。
すると、海の底の珊瑚や魚や海藻が見え始め、海底が地殻変動をはじめた。

11月の私は、まだ体力も恢復していないというのに、授業も、就活イベントもこなし、入試の試験監督と面接官までした。
ゼミや演習の学生たちは、私の右腕があがらないので、スライドを映す白幕を下ろすことを手伝ってくれるし、重たい本を持ってくれる。
私が元気なことに安心したのか、ゼミの学生たちも個別の相談を持ち掛けてくるようになった。
直接乳がんのことを話した学生たち以外は、私が片胸の魔女だということは気づかないし、私自身の内部で起きている変化にも気づかないだろう。
私は退院後、男もののシャツや前アキのシャツを着て、Gパンを履くようになったが、そのことに気づいた学生はいただろうか。

17年ぶりのショートヘア

11月23日土曜日、私は出産前以来、17年ぶりに髪をショートにした。
初めて、京都の高島屋の資生堂美容室に行った。
子どものころ、祖母と出かけたのが、上野松坂屋の資生堂美容室だった。私は大人の美容室で、パーマをあてられた小さな女の子だった。

5歳。青函連絡船で祖母と二人旅

私は、今は此岸にはいない祖母に、会いたかったのだ。
(亡き祖母は、私の守護神みたいなものだから)
祖母の記憶の気配のあるところは浅草なのだが、京都でそれを求めるとき、私は高島屋で祖母がかつて買ってくれたお菓子や、祖母が使っていた化粧品を求める。
そのとき、高島屋に資生堂美容室があることを発見した。

「へなへなっ毛」と祖母が言ってパーマをあてていた私の髪は、カットをしただけでは、いくらブローをしてもストンと落ちてしまい、私は50代のマッシュルームカットになってしまった。
まあ、失敗である。
時間と体力があれば、パーマをかけるのだろうが、術後ひと月も経っていない交通事故の怪我人のような私には、カットだけで精一杯だった。
(だから、その写真は掲載しないでおく)




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