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檻を破れ「魔女になる日 さよならおっぱい」36
記憶にない懐かしさ
1月のある日、仕事の打ち合わせのために、私は四半世紀前に知り合った在日コリアンのオンニの部屋にうかがった。
私は出版編集者である。著者になる方はともに本を作る友人、同志だった。
本を作ることは、ともに旅の計画を立て、ともに旅する、生き合うことである。その人の深くに降り立って、その人の声、言葉を聞き、表情を汲む。
リスペクトと愛情がなければ、その人の本を担当しようなどと思わない。
オンニは、私の大切な年上の友人だった。
乳がんを経験して、命は有限であることを切実に自覚した私は、これからの人生で為すべき仕事を精査しはじめていた。
この方の本は必ず出版する。そう決めると、不思議と出版できなかった本はない。私は自分自身の本も必ず出版すると決めなくてはならないのだろう。
オンニは、次々と食事を作って私の前に並べてくれた。
大人になっても、多くの方には「実家」があり、母親の作った料理を食べることがあるのだろう。
外食以外で人に食事を作ってもらうことがほとんどない私にとっては、料理を作る人の背中を見ながら待っている、その状態が不思議で懐かしかった。懐かしかった、といってもその記憶は私にはない。
いや、あった。
東北出身の祖母がひとりで暮らしていた、浅草の部屋の台所。
朝鮮風そうめん、とオンニが呼んだにゅう麺のスープを一口いただいた。
「何これ、おいしい。何が入っているの?」
私は訊ねた。
「うまいだろ。ごま油にめんつゆ、レモンとネギが入っている」
それが朝鮮半島にある味付けかどうかはわからなかった。
日本で生まれた在日コリアンが「自分の国」と呼べる、記憶にない場所を懐かしみ、ごま油とネギと酸味を重ねて、在日1世が記憶してきた「朝鮮風」の味を再現する。
私は、記憶にない私のなかの4分の1のKOREAを懐かしんで、きっとこれが「朝鮮風」なのだ、と新しく記憶する。
その懐かしさと親しさと友情を、オンニから受け取る。
檻の中からの挑発
2年ぶりに再会するオンニは、この連載noteを読んでくれていた。
「前に乳がんで亡くなった友人がいたんだよ。最後の日々を私といたいというから付き添った。おっぱいを切除した胸を見せてくれたの。乳首のない胸を初めて見た。怖かった。だから純ちゃんが乳がんになったと聞いておお! と思った。純ちゃん、人体実験のように書き続けるだろ。自分から抜け出して、空を飛んで、色々な角度から自分を見て書いているだろ」
オンニは言った。
「実際には自分から抜け出す解離はしていないけれど(笑)。自分を客観視して書くというのは、精神的な解離状態かもしれないね。自分を客観視しないと、がんなんだから不安に陥ってしまう。書くことで自分の精神と日常を保っていたの」
私はそう言って笑った。
「純ちゃん、自分で人類館の檻の傍にやってきて、内側からオラオラって挑発している人みたいなの」
オンニの受け止めと比喩は強烈だった。
人類館とは、1903年の大阪天王寺で開かれた内国勧業博覧会の「学術人類館事件」、生身の人間を「展示」する「ヒューマンズー(人間動物園)」のことである。後世に残る差別事件として記録され、継承される事件である。
アイヌ、沖縄、朝鮮、台湾等の人々を「展示」した背景には、植民地として支配した人々を自分たちの下位に置き、「興味深く」観察し蔑視するまなざしがあっただろう。そうすることによって、日本人の優位性や植民地支配の正当性を示した。
人類館事件の比喩も難解だか、私が檻の内側から挑発している、というのはどういうことだろう。挑発している相手は誰なのだろうか。
私たちを閉じ込める檻は何か。
男性が作った社会で、張見世で格子越しに陳列された「女」、献上される「女」、お持ち帰りされる「女」、強姦される「女」、崇められケア労働を搾取される「母性」、女性性の象徴とされる女の「乳房」、ランク付けされ消費される「若い女」、笑い話で蔑視される「更年期の女」、子どもを産む機械だと言われた「女」、「女体盛り」などという気持ち悪いことこの上ない「文化」。
私は乳房を切除されたことで「見られる」女性性の檻を内側から破った。
しかし、檻の外は男性が作った社会だ。そこに紛れることは解放ではない。
私は破壊した檻の格子ごしに女性を商品として見る者たちを睥睨している。オラオラ、私は魔女だ、山姥だ、もう女からも自由になったのだ、と。
魔女になった私たちの上には高い空が広がり、山姥になった私たちの後ろには、果てない山と森が広がっている。
大丈夫だ。
私たちが生きられる世界は、思っているよりずっと広く、深い。
「見る?」
柿渋と藍染のストライプの男物の前開きシャツを着た私が、ボタンに手をかけたとき、オンニは慌てた。
「いい、いい」
オンニは怖がっていた。
「枝を切った樹の跡地みたいできれいよ」
乳房を切除されるということは、確かに怖いことだろう。
私ははじめて同性の本音に触れた。
勤務先の大学で、授業をしながら分厚いジャケットを脱いで薄いセーターになったとき、女子学生が痛ましいような目で私の平らな胸を見ていたことがあった。
その日、私は和装用の胸を押さえる下着を身につけていた。
喪った乳房を再建するのではなく、双方を平らにすることでバランスを取るのが私のやり方だった。
私はそっとジャケットをはおった。
浴衣を着て温泉に入ろうとしたとき、浴槽に入ろうとした私の胸元を、浴槽の中からじっと見た視線をいくつか感じたことがあった。
私は、実はそれらに敏感に気づいていた。
「いいよ、見なよ、ちゃんと見ておきな」
私はそう思って、無意識にはねのけていた。
「そうか、怖いのか。温泉で浴衣を着たのは正解ってことね」
私が言うと、オンニは頷いた。
「でも、また温泉行くから」
そう言うと、オンニは驚いたような顔で私を見た。
「心身のケアのために温泉は私には大事なの。浴衣を着た私を見かけた人たちが、いつか自分の胸が乳がんでなくなっても、浴衣着て温泉入ればいいんだ、って思えたらいいじゃない。学生にも我が子にも、がんになっても、胸がなくなっても、何も諦めることなく、変わらず楽しく生きている姿見せるから」
「純ちゃん、強いな」
オンニはそう言って深く息を吐いた。
緊張させてごめん、オンニ。
差別、ヘイトの前線で闘い続けてきたオンニは、勇敢だから闘い続けてきたのではない。闘わないと殺されてしまうから闘ってきただけだった。
私は、貴女を殺させない。貴女は殺されてはならない。
大丈夫だよ。乳房を喪ったくらいで私は損なわれたりしない。
そのこと自体は私を傷つけたりしない。
私は私だ、ずっと前からそうだった。周りが知らないだけだ。
私は滅多に磨いた刀を見せることはない。
オンニは40歳で子宮を切除した話をしてくれた。
「生理がないって、こんなに楽だったんだ、と思った。その時強烈に怒りがわいたの。男ってこんなに楽だったんだ、って」
たしかに女の体で生きることは痛い。生理的な痛みだけではない。
でも、私は男に生まれたいと思ったことはなかった。
私はつぎつぎ並べられたオンニの手料理をいただく。
食べることは生きることだ、とオンニは言う。
若いある時期、私には食べるという欲望が全くなかったことがある。
女が太ることを嫌悪していた母、ミソジニーを内面化していた母は、男である父や弟と私の食事を区別していた。
若い私には空腹感がなかった。
若い私には生きることへの欲望がなかった。
今より10キロは痩せていた薄っぺらい背中の体でも、欲望されることはある。いや、欲望ではなく支配欲かもしれない、劣等感ゆえの。
自分が自分でいられる人たちは、人を貶めたりしない。
魔女になった私は、檻の中から拳を繰り出し檻を出て、その人を後ずさりさせる。若い私の人格を認めず貶めた人たちを、記憶の中で挑発する。
女の檻から出ず、檻の中での優位性を示すために私を檻に閉じ込めようとした母に手を差し出す。
こっちに来て。貴女もその檻から出てみたら?
私も強烈に怒っていた。
なんだろう、この気持ちは。
怒っているのに悲しい。涙が出そうで出ない。私は泣くことができない。
私とオンニはそれから、沖縄の彫刻家の作品を後世に遺すためのプロジェクトの話をした。
プロジェクトにはオンニの友達の写真家やWEBデザイナーの方も関わる。
彼らもきっと、心のなかで拳を繰り出して闘う者たちだろう。
私たちは「あの目」を知っている者たち、という意味で同志だった。
私たちを見えない檻に入れて、檻の外から見て蔑視する、あの何とも言えない目。
その目は人を殺す目だということを、私たちは知っていた。
悲鳴はなかったことにされ、尊厳のために声をあげれば踏みにじられる。
私は、尊厳のための声を100年後の未来の砂粒のような本として、遺す。
そこには深い人間性が海のように広がり、打ち寄せ、凪いでいる。
明け方には紅を反射し、夕べには藍を抱く。
いつか、誰かが檻に入れられたときに、抵抗の仕方と拳の繰り出し方と檻の破り方を伝えるために、その声は海の底から甦る。
大丈夫だ。
あなたが経験したことは、前に誰かが経験している。
私たちは、その檻を破らないといけない。
檻から出て、私たちを解放しなくてはいけない。
檻を破れ。
生きていれば、体が欠損することも、心が壊されることも、ある。
喪っても、深い傷を負わされても、再び生きられるほどには恢復する。
壊れたままでも、壊れた声と体でも、生き続けろ。
大丈夫だ。