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あの頃、エロを求め自転車を走らせた

最近の若者は

なんてオジサン臭いことを言うつもりで書こうと思う。

僕は懸念しているのだ。

最近の若者には、あまりにも身近に「エロ」が存在することを。

すべての元凶はもちろんスマホだ。

カビカビになったエロ本に

あの頃、なぜか道端や川辺の草むらに落ちてあったエッチな本。

濡れて乾いてガビガビになったエッチな本。

誰かが見つけたそれを、こっそり持ってきたそれを、大人に見つからないように覗き込む。

初めは、さも「そんなに興味ありませんよ」と言わんばかりに慎ましく。

しかし、盛り上がってくると食い入るようにページをめくる。

女の人の裸があった。それになぜ興奮するかも分からなかった。それはまさしく本能だ。自分たちの求めるものがここにあると。ガビガビになった汚い雑誌を必死になってめくるのだ。

生きているページはわずか。まるで救命行為をするかのように、時に優しく、時に激しく。ページをめくる手は止まらない。

そして少年は自転車を走らせる

中学の頃だっただろうか。

近所の本屋の角に、エッチなビデオ(当時はまだVHSだ)を売っている自動販売機があった。

表面には特殊なフィルムが施され、昼間は真っ暗で中が見えないようになっている。

夜になり、内側からライトが灯されるとようやく中身が顕わになる。マジックミラーのような構造だ。

どうして自動販売機にそこまでの機能を持たせるのかは分からないが、やはりエロはテクノロジーを進歩させる、ということなのだろう。

そうして明らかになるその桃源郷は、当時の僕にはあまりにも眩しかった。

親が寝静まった深夜、もしくは仕事で遅くなるような日を狙って、僕は自転車を走らせた。

あたりに人気がないことを確認すると、見事なドリフトで自動販売機の前に自転車を停車させる。

選んでいる余裕はない。

そもそも選ぶ必要はないのだ。

当時、その販売機で売られていたビデオは千五百円から二千円くらいだったように思う。

しかしその中の右端一番下のボタン。

ここに「ヒミツ」というボタンがあった。

これは今考えると在庫処分品のようなものだろう。

その他の商品はパッケージやタイトルまで見えるのだが、このヒミツのボタンの商品だけは黒いパッケージに入れられていて、どんな商品が出てくるのか分からない、いわば「お任せ」状態なのだ。

価格は驚愕の五百円

まさに興奮価格だ。

僕はポケットに入れていた五百円玉を取り出し、自動販売機に投入する。

そして右下のボタンを連打するのだ。

商品が取り出し口に落とされるまでの刹那、僕の感覚は極限までに研ぎ澄まされる。

「まわりに人は来ていないか。誰かに見つかったりしないだろうか」

そんな緊張感の中、ガコンと商品が排出される音がする。

僕は急いで商品を取り出し、乱暴にカゴに投げると一目散に逃げだした。

そう、あれはまさしく逃亡だ。

そして味わう達成感。もはやビデオを観なくてもいいのではないかと思えるほどの興奮。

家に帰ってこっそりと黒いパッケージを開く。あぁ、この瞬間がたまらない。

タイトルはもうほとんど覚えていない。当時の流行りといえば「ヤリすぎ家庭教師」みたいなタイトルだろうか(女性の読者の皆様方にはあまりにも下品な話で申し訳ない)

当然、「お任せ」で買った商品である。当たりもあれば外れもあった。

そんな青春の思い出だ。

背徳感を持たずして

なぜこんなにも下品で赤裸々な話をしようと思ったかというと、当時の僕らには性的なものに対して確かな「背徳感」や「罪悪感」があったからだ。

いけないことをしている。

そんな思いを抱きながらエロと向き合っていたのだ。

ところが今はどうだ。

手の平に収まるほどの機械ひとつで、世界中のエロに触れることが出来る。

過激なものも難なく目にすることが出来る。

今の若者はモザイクが消えるという噂を鵜呑みにして目を細めて画像をみることもないのだろう。

そんな時代の若者が羨ましくもあり、切なくもある。

あの頃僕たちが感じた、あの背徳感や罪悪感。

あれは確かに、エロと向き合うのに必要な時間ではなかっただろうか。

「いけないことをしている」という実感が、僕たちを大人にしてくれたのではないだろうか。

いまを生きる若者たちよ。少し、ほんの少しでいい。

エロを手に入れるのに苦労をして欲しい。

夜道に自転車を走らせて、あの光に胸躍らせて。

たまにハズレを掴んで欲しい。

人気を気にして隠れて欲しい。

もう経験することは出来ないであろう、あの興奮と感動を、君たちにも味わって欲しかったと、昭和生まれのオジサンはほんの少し思うのである。






あ、fanzaさん、いつもお世話になっております。

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