【恋愛ファンタジー】36.4度のぬくもり 後編 恋しい人が亡くなって、ヒューマノイドとして帰ってきたら
海斗と出会ったのは、医局の先輩の個人開業の祝賀パーティだった。立食形式の盛大なもので、開業する先輩を祝うというよりも、今後のための顔つなぎや、教授や准教授方へのこれまでの感謝の表明といった意味合いがあって、理生の勤めていた大学病院では、開業のための退官時には慣例となっていた。だから一番ぺこぺこしているのが、主役であるはずの先輩医師で、大学病院の関係者だけでなく、製薬会社や医療機器メーカーの人たち、あとはすでに開業している個人的なつながりのある医師もいた。それが海斗だった。
先輩医師の高校の同級生で、弓道部の仲間でもあったそうだ。進学先は別々の医学部だったけれど、つきあいは続いていた。
「こいつはね、美容外科の院長先生だ。なんとクリニックは青山通り、美容整形はもうかるからさ、うらやましいよ」
羨望と揶揄の入り混じった口調で紹介された。
美容外科は形成外科の一部分だ。外科と大きくひとくくりにされてしまうけれど、内容は細分化されている。理生の専門の形成外科は、整形外科と間違えられやすいけれど、整形外科はおおざっばに言えば、捻挫とか骨折とか、外傷による運動機能の障害の治療が目的だ。形成外科は火傷も含む外傷や疾病による機能不全や変形の治療修復を行う。わかりにくいけれど、乳がんで乳房を切除した場合の乳房再建や、交通事故などで顔面骨折した場合の相貌復元などがそれにあたる。
単に機能を取り戻すだけでないのが特徴と言えば特徴だろうか。顎の骨が砕けてしまった、そのままでは噛めなくなる。食事が出来ない。噛めるようにするのが機能修復、さらに見た目を元通りにするのが変形治療。
命を拾ったのだから、見た目なんてどうでもいいじゃないか。
そういうことじゃないのだ。社会復帰の一助として、外見を整えるのは重要だ。外観の変形は心にもダメージを与える。生きる気力が萎えてしまう人もいる。
やりがいのある仕事ではあった。けれど、理生の心は少しずつ削れていった。元に戻りますか、前と同じになりますか、声にならない悲痛。助かったのだから、贅沢を言ってはいけない。でも。
口に出しては言われない、切実な願いが理生には聞こえた。なんとかしてあげたいけれど、医師は万能ではない。がんばればがんばるほど、言葉にされない悲痛の波に溺れてしまいそうになった。
みずから医師を志したのではない後ろめたさもあった。医学部に進んだのは内科の開業医である父の希望だった。理生と妹の二人姉妹、期待を掛けられたのは長女の理生のほうだった。三つ下の妹には、女の子なんだから、がつがつ勉強する必要なんてない、のんびりやればいいじゃないか。お見合いの釣り書きに高卒ではみっともないから、地元の短大にでも行けばいい。いったいいつの時代の話かと思うけれど、二十年前の地方都市の感覚としてはそんなものだった。
高校生にもなれば、メイクにファッションで頭がいっぱい、日曜日は友達とバスに乗ってイオンモールに出かけて一日過ごす。ひらひらふわふわ楽しい高校生活とは無縁で、理生はせっせと予備校に通い模擬試験を受け、もっともっと、父と母にあおり立てられ、息をつく間もなかった。
女の子なのに東京の大学に行くのは、跡取り娘だからよね、それじゃ仕方がないわねえ、でも、女の子一人で東京なんて。聞かなくても聞こえてくる声を無視して、理生は大学、それも医学部限定の受験に賭けた。
家を出るチャンスだった。自由が欲しい。
人の役に立ちたいなんて高邁な理想はなく、自分のために医師になった。そんな自分に、悲痛の海で溺れる人たちを助けられるだけの力はない。
海斗の第一印象は、感じのいい人、頼りになりそう、だった。話も弾んで、退屈なパーティも長く感じなかった。お開きのときに、もうちょっとだけでいいから話をしたい、思ったのは海斗のほうも同じだったようで、そこからおつきあいが始まった。
理生が三十五歳、海斗が三十九歳。若いときに経験したような、恋しくて恋しくて会いたくて、そんな恋情とは無縁だったけれど、居心地がよかった。理生の事情を理解してくれる人でもあった。
形成外科医は勤務医でも、時間の融通はききやすい。それでも勉強はしなくてはならないし、論文を書く時間も必要だった。女性医師にありがちな、向こう側は見えているのに立ちはだかる壁を越えるためのエネルギーも必要で、僕よりも仕事のほうが大切なのか、君とは無理だよ、そんなことが続けば、恋愛なんて面倒なだけになる。
海斗のほうも似たような事情で、大学病院を辞めて橘美容外科クリニックを開業したのは三十五歳の時、医師として独り立ちするぐらいの年齢で、開業を思い立つ時期でもあった。資金の問題があるから、思い立っても簡単にはいかないが、海斗の場合は祖父からもらった土地があった。青山の一等地、全部でなくても売ればかなりの金額になった。
資金面で恵まれていても、自分が育った場所を手放すのは勇気がいっただろう。そこには家族の思い出があるのだから。
そうして忙しくしているうちに、いつの間にかこの年になっちゃったよ、僕に魅力が足りなかったんだな、冗談にまぎらわせながら、家族が出来ても、また一人に戻らないとも限らないだろ、そう思うとためらうこともあった、なんて言ったりもしていた。
穏やかな関係は心地よく、つきあい始めてしばらくして、クリニックを一緒にやらないか、海斗に誘われた。プロポーズだった。迷った。美容外科に転身してしまったら、大学病院には戻れない。健康な体を切ったり縫ったり、本来必要がないことをして、金もうけをしていると、一段も二段も低く見られているからだ。もしも美容外科医としてうまくゆかなかったら後がない。形成外科では個人の開業はむずかしい。
それで聞いた。どうして美容外科を開いたの?
「ほんんちょっと、鼻を高くしたり、唇をふっくらさせたりするだけで、生きることが楽しくなるなら、いいことじゃないか」
ああ、そうだ、理生だって、患者さんたちに楽しく生きて欲しい。
溺れそうだった理生は、海斗が差し出してくれた手を握った。
悲痛の海から逃げたのだ。
この人なら私を守ってくれる。
その代わり、親との関係は悪くなった。理生が形成外科を選んだときも渋い顔をされた。内科じゃないのか。しようがない、腕のいい内科の男をつかまえろ。
お婿さんを取って後を継がせるのなら、妹の相手に内科医を選べばいいじゃないの。
反発は実家との距離を置かせた。海斗との結婚を報告すると、なんだ、内科医じゃないのか、しかも美容外科だと? なおさら距離は遠くなった。妹は地元の会社に勤める会社員と結婚していた。理生のために場所を空けておいたのに、なんでだ、どうしてだ。
そういう結婚だったけれど、海斗が好きで、かけがえがない存在なのは間違いなかった。
いつもはうつむいて顔を隠しているんだろうに、見て見て、こんなに顎が出てるんです、しゃくれてるんです、よく見て、直してください。悩みが消えるきれいになれる、希望が彼女たちの顔をあげさせる。形が変わっても中身は変わらない。それでも気持ちも変わったと彼女たちは言う。
おとがいの骨を削る。削ると顎は短くなるけど、フエィスラインが丸くなるから、バランスを整えるために顎を少し先に出してシャープにして、場合によっては頬骨も調整する。
レントゲン写真を示しながらの説明に、長い髪でもっさりと顔を隠した彼女は、はいはい、頷いているけど、その目が見ているのは、術後のイメージ写真だ。こういう感じになりますよ、いくつかシミュレーションをして選んでもらう。骨の形しか映っていないモノクロの写真よりも、そっちのほうがずっと見ていて楽しいし、自分がこんなにみっともない形の骨格なんだと見たくないのだ。
心はきれいになった私に飛んでいる。だからこそカウンセリングは重要だ。理生たち医師がまず、つぎにカウンセラーが、そしてオペ前にもう一度医師が。希望には出来るだけ添うけれど、不可能はある。妥協点を探りながらの落としどころがずれてしまわないようにだ。それだけしても、違う、こんなんじゃない。苦情はある。頭の中のイメージと自分を重ねてしまっているからだ。
カイトは非の打ちどころなく海斗にそっくりで、中身も海斗のコピーで、なのに海斗じゃない。いったい、人ってなんだろう。心ってどこにあるんだろう。
「カウンセラーが施術のスケジュールや料金の説明をいたしますので、いったん待合室でお待ちください。もしもまだ迷っていらっしゃるようでしたら、またにしますとか、考えてからにしますとか、遠慮なくおっしゃってくださいね。いつでもご相談は受け付けていますから」
患者を安心させる医者の微笑みを浮かべているんだろうな、鏡を見なくても理生は、自分がどういう顔つきをしているかわかる。
「あのう」
術後のイメージ画像に釘付けになっていた、彼女の目が理生に向く。真剣だ。
「はい、どうぞ、なんでも言ってくださいね」
ちょっとためらってから、彼女は言う。
「あたし、海斗先生にお願いしたいって、ずっと思ってて、でも、なかなか気持ちが決まらなくって、やっと決心がついたんですけど、でも、海斗先生、お亡くなりになってしまって、いえ、あの、ここのクリニックの先生はみんな上手だって聞いてます。それに海斗先生のクリニックだから、同じようにしてもらえると思ってるんですけど」
確かに言いにくいことだけど、言ってもらった方がいいことでもある。
「そうですね。同じ術式でも医師によって、多少雰囲気が変わることはあります。みなさまお好みがありますから。そのようなご要望がおありでしたら、こちらもなるべく、橘海斗の施術のイメージに近づけるようにいたします。そのあたりは心得ておりますのでご心配いただかなくても。そのほかにもご要望があれば、遠慮なくカウンセラーにおっしゃってください」
言いたいことが言えてほっとしたように、はい、頷いて彼女は診察室を出て行った。インタフォンのモニターボタンを押すと、すぐに十二番様、カウンセリングルーム一番にお入りください、弓月さんが呼ぶのが聞こえた。待合室の音声が聞けるようになっている。こんなことしなくてもいいのだけど、患者さん、カイトの呼び方に従えばお客様の、滞留時間は少なく、お客様同士が顔を合わせないように、海斗の方針だった。スムーズに物事が進行しているか、確かめずにいられないのは、理生に自信がないせいだ。
海斗のようには出来ない。
次の予約まで時間があった。コーヒーでも飲もうか。受付の後ろに休憩ルームがあって、簡単な給湯設備がある。やっぱり紅茶にしておこう。診療時間中だからコーヒーだと香りが待合室にもれる。
診察室を出る。待合室には誰もいない。待合室を挟んで向こう側の高坂医師の診察室には、診療中のランプが灯っている。カウンセリングルームも使用中になっていて、予約時間の組み合わせがうまくいっているのだと安心する。
海斗がいなくなっても、海斗の手に守られている。その痕跡が消えないうちに、院長としてしっかりしなくっちゃ、理生は思うのだけど、うまくやれているだろうか。
受付に座っているのは弓月さんだ。手元に目を落として、理生がいるのに気がついていない。気分でも悪いんだろうか。驚かせたくなくて、足をしのばせて背後に回り、そっとのぞき込むと、弓月さんはスマホの画面をじっと見ていた。
前にいた受付の人が出産を機に辞めたので、新しい人を探していたところ、製薬会社の営業さんが、仕事を探している親戚の女の子がいるんです、身内びいきというのではなく真面目な子なんですよ、二十四歳で独身、結婚の予定はまだないんですけど、結婚しても仕事は続けると言っているし、どうでしょうか、言い出した。医療系の専門学校を卒業して総合病院に勤めているのだけれど、総合病院が郊外に移転することになって、もっと家から近いところにかわりたいのだそうだ。
身元がはっきりしているのは安心で、その人が言うならという熱心な営業さんでもあったし、個人経営のクリニックだから総合病院とは違うことも多いけれど、経験があるのは助かる。面接をして断ることもありますけど、念を押せば、それでもいいと言う。
気になったのは、最後につけたしのように、、海斗先生のファンなんですよ、言われたことだけど、会ってみればかわいらしい印象で、明るくて感じがよくてはきはきしている、これならというので採用になった。
橘美容外科クリニックもネットでの発信に力を入れている。美容整形が気軽なものになって来ていても、やってみたいけど怖い、どこでやればいいか選べない、そういう人たちがたくさんいる。その選択肢に割り込むには、待っているだけではだめだ。
海斗は積極的だった。美容整形とはどういうものか、二重にしたいなら、鼻を高くしたいなら、専門用語を使わずに解説する。予想以上に人気が出たのは、海斗の説明のわかりやすさと、あからさまに言えば見た目の良さ、この人なら頼りになる、信頼できる口調、そんなものの効果だった。
理生も高坂医師も、海斗同様にあれこれやってみたけど、内容は悪くないのに、海斗ほど再生回数は伸びなかった。海斗のカリスマは、画面越しにも伝わった、ということなのだろう。
橘美容外科クリニックは、顔貌整形を主にしている。つまり肩から上で、おなかや足の脂肪吸引などはしない。医師にもそれぞれ得意があるからだし、施術を特化したほうが、医療機器も少なくて済む。経営上の都合もある。理生はもともと顔貌修復を多く手掛けていたから、その点ではスムーズだった。
弓月さんが見ていたのは、海斗のユーチューブチャンネルだった。音は出ていなくても、鼻尖縮小術の解説だとわかる。鼻尖は鼻先、鼻の頭とも言うところで、丸すぎると団子鼻と呼ばれたりもする。弓月さんは鼻先がもうちょっとすっとしてたらいいのに、よく言っていて、お金がたまったら、海斗先生にやってもらいたいなあ、従業員割引みたいなものないですかと、以前から言っていた。
気にするほどじゃないし、鼻先が尖っていないからこその愛らしい雰囲気なんだしと、理生は思うけれど、理生も自分の鼻の形を気にしていたことがあったから、二割引きだからね、なんて言ったりしていたのだ。
弓月さんも海斗にして欲しかったんだな、海斗がいなくなってがっかりしただろう、仕事中だからスマホはしまって、言うべきなんだろうけど、迷っていると弓月さんが顔をあげた。理生と目が合った。
「あ、すみません、あの」
うろたえる弓月さんの頬に涙がこぼれていた。
「すみません、すみません」
理生はとっさに言葉が出なかった。
「海斗先生がいなくなっちゃって、それで、さびしくて。あ、あ、あ、あの、へ、へんな意味じゃないです。海斗先生となんかあったとかじゃなくって」
しどろもどろの言い訳でも理生には通じた。
表には見せないようにしていたのかもしれなかったけど、弓月さんにとって、海斗は推しのアイドルと同じ存在だったのだ。弓月さんは毎日はつらつとしていて、嬉しい楽しい、浮き立つ心が表にこぼれているような感じだった。海斗のそばにいたからだ。それがなりをひそめたのは、海斗がいなくなってからだ。
喪失感。
弓月さんの心にも穴が開いたのだ。それを埋めるのが、ネットの中で今までと変わらずにいる海斗の姿なのだ。画面の向こうの海斗は呼びかけても応えない。何回見ても同じことを繰り返すだけだ。それでも、弓月さんは見ずにはいられない。
「だいじょうぶ、そんなこと思ってないから。海斗を想ってくれてありがとう。でもね、仕事中は控えてちょうだい」
当たり障りなく言いながら、弓月さんがカイトのことを知ったらどうなるだろう、ちらっと考えた。絶対の秘密だ、誰にも言わない。でも。
「もっと早く海斗に鼻、やってもらえばよかったね」
そんなことしか言えない。ぐすん、弓月さんが鼻声で言った。
「海斗先生にやって欲しかったですけど、オペのときって変な顔見せなくちゃならないですよね。だから、それがいやだったって言うか、迷ってたって言うか」
鼻先を整えるのに鼻の内側を切開する。切る側としては、当たり前でなんとも思わないのに、弓月さんは海斗にみっともない顔を見せたくなかった。「すみませんでした。これから気をつけます」
秘密秘密秘密。
ヒューマン・レプリノイドは違法でもなんでもない。合法的な商品だ。それなのに、知られたくない。高級車や宝飾品と同じなのに、連れ歩いて見せびらかす人なんているんだろうか。物だけどただの物じゃないからだ。記憶も知識も生前のまま。人間のコピー、レプリカだからだ。
それだけじゃない、画面の向こうのアバターなら架空の存在だ。ヒューマン・レプリノイドはそうじゃない。そこに居る触れられる、話しかければ応えがある。
なにより。
人の形をしている。しかも生き写し、そっくり、同じ。
ヒューマン・レプリノイドの形が、その特性こそが、固い秘密を作り出す。誰にも言えない、誰にも言わない、内緒、秘密。そんなものは知りません、持ってなんていません。
どうしてだろう。もしももしも、カイトの外側だけ、ロボットみたいにしてしまったら、四角い銀色のぎくしゃく動くロボットだったら。それもうんと小さくして、テーブルに乗るぐらいのサイズだったら。海斗の姿をしているよりも、ずっとずっと、気負わず話しかけやすくて、海斗はここにいるんだなと信じられたかもしれない。
そう、形、姿、そこが大問題なのだ。
人はどうして形に惑わされるのだろう。海斗にそっくりだからこそすんなり受け入れられない。
カイトは外に出ない、出られない。玄関ドアの内側、左右の壁にひとつずつ、薄くて細長いパネルが取り付けてある。電磁柵だ。掃除ロボットの侵入禁止エリアを区切る磁気テープの高性能版。ヒューマン・レプリノイドは電磁柵を越えられない。単体での外出を防止するためだ。スマホやICカードを長時間近くに放置しないことと注意書きがあっても、人にはあるのかないのか感じられなくて、目にも見えない。
日中留守にしていても安心なのは助かる。ひとつだけ気をつけなくてはいけないのは、家事代行サービスのある日だ。週に二回。午後にサービススタッフが来る。マンションの受付で受け取ったカードキーで室内に入ってもらう。インタフォン横のキーパッドにカードスリットがついていて、そこに通すと解錠される。カードキーは一回きりの使い捨てだ。返却せずに持ち帰っても次は使えない。
サービススタッフがいる間、カイトはピット・インだ。海斗は自分の部屋に他人が入るのを好まなかったから、海斗の部屋だけはサービスから外してもらっていた。カイトにはピット・インの前に内側から施錠するように指示してある。カイトに限ってはうっかり指示を忘れることはない。まんがいち忘れても部屋にあるのは中の見えないカプセルだから、あれはなにかと聞かれても、健康機器の酸素カプセルだとでも答えればいい、もっともサービススタッフは金額に見合うだけの優秀さで、そういう間違いが起こるとは考えられないから、それほど心配はしていなかった。
午前の診療が終わってお昼休み。理生は院長室で食べてもいいのだけど、習慣で福田さんと弓月さんと休憩室で食べている。高坂医師はいつも外食で、二人いるカウンセラーさんたちは、午前と午後で交代するからお昼休みにはいない。弓月さんは持参のお弁当をそそくさと食べ終え、コンビニに行くと出て行ってしまった。理生といるのが気まずそうだ。
「弓月さん、最近どうなのかな」
さりげなく福田さんに聞いてみる。。福田さんは開業時からいる人で、海斗がいない今では橘美容外科クリニックで一番の古参だ。
「どうって、そうですねえ」
福田さんは首を傾げた。
「元気がないみたいだから、気になって」
海斗の動画を見て泣いていたことは言わない。
「ええ、海斗先生のことで、気落ちしてるんでしょう。でも、心配いらないと思います」
「ならいいけど」
「あ、いえ、心配って、辞めるとかはないって意味で、院長先生もそのあたりを心配してるんでしょう」
もう院長先生と呼んでもらわなくてもいいかもしれない。海斗は院長先生と呼ばれなくても院長だったのだから、院長先生と呼ばれるたびに自分の力不足を指摘されている気分になる。
「真美ちゃんは、海斗先生のファンっていうんですか、崇拝者のほうが近いかしら。だから、海斗先生の気配みたいなものが残っている間は、辞めませんね」
「崇拝なんておおげさな」
「理生先生が気がついていなかっただけですよ。海斗先生は気がついていたと思いますけど。あ、でも、へんな意味じゃありませんから。崇拝者だから、側で眺めていられるだけで嬉しいって感じだったんじゃないかしら」「そういうもの、ですか」
「と、思いますよ」
なんとなくあやふやな気持ちのまま院長室に戻ると、スマホがメッセージの着信を知らせた。家事代行サービスからだった。担当者から依頼主に問い合わせをしたいときに、会社経由で届くメッセージだ。
なんだろう、なにげなく開いて、どくん、心臓がはねた。
『ご自宅にお伺いいたしましたが、同居のご家族様が在宅していらっしゃるようです。本日のサービスはいかがいたしましょうか』
なんで?
夫に内緒で妻が、もしくはその逆も、家事代行サービスを頼む場合があるそうで、鍵を渡されていても必ずインタフォンを鳴らして、在宅を確かめる。あらかじめ連絡があった場合以外に、依頼主以外の家族、同居人が在宅していたら、念のために問い合わせのメッセージを送ることになっていると、契約時に知らされていた。
海斗から勧められたことだから、ちっとも問題はなかったけど、カイトには家事代行サービスが入る時間にはピット・インを指示している。カイトの存在の説明をしたくないからだ。
秘密、内緒、言いたくない。
ピット・アウトはスタッフが帰る午後五時より後、午後六時
それなのに?
とにかく返信をしなければ。
焦るのに指先が震える。画面を滑る。
早く早く。
そこで手が止まる、なんて返事をすればいいの。
今日はキャンセルにしてください、構わないのでいつものようにお願いします、どっち?
キャンセルを送れば、他のお宅と間違えました、言ってくれる。でもでも、カイトは知っているんだから、間違いではないですよ、答えてしまうかもしれない。でもでもでも、いつものようにしてもらったら、カイトがいるのだ。
ああ、どっちにする?
再び着信があった。
『ご家族様は代行サービスをご承知とのことでしたので、上がらせていただきました。お忙しいところを失礼いたしました』
どきどきと、鼓動は治まらないけれど開き直るしかない。
『お手数をおかけしました、夫が在宅なのを』
違う、夫じゃない。
パートナー? 家族? 同居人? 人じゃない。
『在宅をお知らせするのを忘れていました。ご丁寧にありがとうございました。よろしくお願いします』
日本語の利点を活用して主語は抜きだ。メッセージを送信して、しばし放心してしまう。
ぽんっ、インタフォンが鳴った。びくっとして振り返る。
「御予約のお客様がいらっしゃいました」
弓月さんの声だった。
いまだに、なぜあのとき、カイトはここにいたんだなんて思ってしまったのか、自分でも不思議でならない。カイトの存在を隠すのは、理生がその存在を完全に受け入れていないからだ。受け入れてしまったら、本物の海斗の痕跡が消えてしまう気がしてならない。
どこまでが海斗なのだろう。
診療時間が終わっても、やることはたくさんあって、一時間二時間、居残ることが当たり前で、明かりを消して戸締りをして守衛室に鍵を返すのは理生の役目になっていた。ところが今日はそれどころではない。家事代行サービスのスタッフからは、定型の業務終了メッセージが届いた。いつもと変わりなかった。
だけど気になる。
そわそわしていると、
「今日はお帰りになったらどうですか。あとはちゃんとしておきますから」
福田さんに言われてしまった。そこへ通りかかった帰り支度をした高坂医師が理生の顔を見て、
「カルテの整理だったら、僕がやっておきますよ」
言うのだから、よほど妙な顔つきになっていたのだろう。
「ごめんなさい、おねがいします」
心はすでに帰路を飛んでいる。タクシーを呼んでと頼むと、本気で心配されてしまった。
「このところ、がんばりすぎですよ。今日はゆっくり休んでください」
「これまでと同じつもりでいたけど、僕で出来ることなら、割り振ってください」
弓月さんは、
「よかったら、送って行きましょうか」
一緒にタクシーに乗りかねない勢いだ。
だいじょうぶ、だいじょうぶ、本当の理由は言えないままタクシーに乗り込み、幸い渋滞もなく三十分後にはマンションのドアを開けていた。
「おかえり、理生」
出迎えてくれたカイトは、いつもと同じ。
「ただいま」
言いながら脱いだ靴を揃えるのももどかしく、奥に進んでリビングを見渡す。きれいに片付いて、ソファの上にたたんだ洗濯物があった。洗濯籠の中身は洗って乾燥機に掛けて、たたんでくれるところまでしてくれる。クローゼットや箪笥は開けない。たたみかたは理生のやり方とは違うが、注文はつけない。やってもらえるなら気にしない。
だいじょうぶだった、みたいだ。ほっとしてまず口を突いて出たのは、「スタッフの人にへんに思われなかった?」
だった。
「べつに、なんとも」
眉をあげて肩をすくめる。海斗がよくやる仕草だ。
「だって、なんで」
ピット・インでカプセルに納まってるはずじゃなかったの、言い掛けた言葉を飲み込む。理生の指示にカイトは従う、指示し忘れただろうか、思い出せない。
なんだか、どうでもよくなった。
私ばかりが気をもんで、ばかばかしい。
ソファに座りこもうとして、洗濯物を片づけてからと手を伸ばすと、
「自分のは自分でやるよ」
カイトは言って、ソファの上の洗濯物の一番上にある靴下を手に取って、履き口を合わせてくるっと折り込んだ。
「えっ」
これは理生のやり方だ。
ゴムが伸びるよ、注意されても、ばらばらにならないほうがいいし、ゴムが伸びる前に底に穴が開く、言い返せば、それもそうかと、海斗もいつのまにか理生と同じやり方をするようになった。
カイトは覚えている、知っている。
まじまじとカイトを見つめてしまった。
カイトの中に私がいる。
私が、たったいま、死んでしまったとして、カイトが残っていれば、理生が生きていた痕跡が残る。
僕が死んでしまったら、祖父母のことも両親のことも、覚えていてくれる人がいなくなってしまう。記憶の中に生きているその人たちが消えてしまう、海斗の想いが迫る。ずっと張りつめていたものが緩んだ。
「カイトが家事代行のスタッフさんと鉢合わせするなんて、びっくりしたんだからね」
気がつけばカイトに文句を言っていた。
「べつに問題なかったじゃないか」
「そうだけど」
「ちゃんと部屋に引っ込んでたよ。じゃまにならないように」
「あたりまえじゃない、でも、顔合わせたんでしょ」
「よろしくお願いしますってね」
最近なかった食欲が戻って来たみたいで、理生は自分でもびっくりするぐらいに食べた。三日分の作り置きが、半分なくなる勢いだ。テーブルの向かいに座ったカイトが、ちゃんと噛め、ゆっくり食べろとあきれている。カイトの前にはなにもない。それでいい、遠慮も気づかいもいらない。カイトはカイトで、海斗じゃないけれど、海斗なのだ。
「あのさ、弓月さんがね」
カイトの動画を見ていたと、泣いていたとは言わずに言う。
「海斗の動画は止めてるのに」
なんだか、死んでしまった人を人目にさらすのが嫌だったのだ。クリニックの経営のことだけ考えたら、個人の遺志によりとかなんとか、コメントを入れて流し続けてほうがいい。亡くなったタレントや俳優のCMが、ご冥福をお祈りいたしますなんてテロップ付きで流れていたりするのだから。
「公式で止めても、いくらでもコピーやダウンロードは出来るからね」
「そうだけど」
「配信を再開すればいい。公式じゃない動画が勝手に使われたりするのは嫌だね」
その通りだ。
「明日、みんなに言ってみる。福田さんは反対しそうだけど」
「高坂くんは賛成だろうな、真美ちゃんはどうかな」
「弓月さんは大賛成だと思う」
どうってことない会話だ。それなのに、三か月の空白があっという間に埋まる。いつも、こんな話ばかりしていた。橘美容外科クリニックをどうやって盛り上げるか。
あんまりじっと見ていたのだろう、カイトが、ん? 左の眉をあげた。癖だ。
「なんでもないけど」
毎日話していた。いろんなことを話していた。たいていクリニックに関することだったけど不満はなかった。手をつないで同じ方向を向いて、一緒に歩いて行く仲間だったから。
だけど。
ちゃんと顔を見て話をするなんて、どれだけ久しぶりなのだろう。同じ方向を向いていたけれど向き合っていなかった。だから海斗がどんな気持ちでヒューマン・レプリノイドを作ろうとしていたのか、聞けなかった。海斗も言わなかった。
本物がいなくなってから気がつくなんて、遅いだろうか。
でも、と理生は思う。
今こうしてカイトと向き合っているこの時間は、カイトの中に記録されている、記憶されていく。だったら、もっともっと、ちゃんとおたがいを見て話すことだって無理じゃない、遅くない。
「ねえ、カイト」
「うん?」
「あのね」
海斗がいなくなった隙間は徐々に埋まり、クリニックも平常運転に戻った。海斗が抜けた穴は大きく、来院予約の数は減っているが、理生は慌てない。理生も高坂医師も、それぞれ指名の予約数はほぼ変わらない。新しい医師を入れるかどうか、じっくり考えてからにしよう。美容外科は乱立乱世の状況に向かっている。大切にすべきは信用だ。
はた目には海斗の死によって乱れた日常が、徐々に元に戻りつつあるように見えるだろう、けれど理生の心の隅に刺さった、小さな小さな小さな棘は消えない。意識しないようにすればするほど、それがある、感じられてしまう。
動画の配信はテロップ付きで再開した。画面の下に経歴を流し、そこに1979~2024と付け加えた。判る人にだけ判ればいい。弓月さんみたいな人はいるみたいで、再生回数は伸びた。弓月さんはといえば、二割引きでですよね、思い切ってやろうかな、なんて言い出している。
やることも考えることもたくさんあるけれど、カイトという相談相手がいる。理生の心理的な重荷は減って、福田さんに顔が明るくなりましたね、ほっとされたりもした。
勝どき駅から歩いて十分。天気が悪い日は直結ならよかったと思わなくもないけど、クリニックまで青山一丁目駅から歩くから、どっちにしろ外には出なくちゃならない。ビル風には辟易するけど。
曇り空の風の強い日で、理生は見えない手に押されて走るように帰宅した。こんな日は最上階の部屋は揺れる。ゆらんゆらん、気にしなければ気にならない、波間に漂うみたいで心地よいという人もいるけど、理生は苦手だった。エレベータもがたんがたん、揺れはしないけど音がする。
でも引っ越しはしない、海斗が選んだ場所だ。
「ただいま」
返事がなかった。かならず出迎えてくれるのに。
「カイト?」
リビングにもいない、海斗の部屋にも、カプセルは空だ。寝室にも理生の部屋にも、トイレをノックしかけて、そんなはずない、でも念のために開けた、いない。納戸にも、ベランダにも。
どこにもいない。
海斗は外に出られない。電磁柵がある。
急いで玄関まで戻ると、電磁柵のパネルの電池ボックスの蓋がずれていた。今朝、急いでいてバッグをぶつけた。そのときに外れたのだろうか。よく見ていなかった、うかつだった。
どうしよう、どうしよう、カイトが一人で外に出てしまった。
帰って、来なかったら。
事故にでも遭ったら。
パニックになって目の前が白くなる。
再び海斗を失ってしまう。また海斗がいなくなってしまう。
作り直して保存データを戻せばいい、そうじゃない。
海斗と過ごした三か月が消えてしまう。理生と一緒に過ごした日々の記憶が消えてしまう。三か月の間の理生は、カイトから消える。作り直したカイトはカイトじゃない。
カイトが行きそうなところ、じゃない、海斗が行きそうなところ。
どこ、どこ。
泣いてる場合じゃないでしょ、しっかりしなさいよ。
崩れ落ちてしまいそうになるのを励ます。とにかく外に出よう。よろよろと玄関に向かう。
そこに。
「ただいま」
カイトが立っていた。提げている紙袋は、理生もよく知っている洋菓子店のものだ。
「なによ、どこに行ってたのよ、一人で外に出ちゃだめじゃないの」
責めたてる自分の声が遠い。安堵感で気を失いそうだ。
「理生の好きなケーキ」
カイトは悪びれずに、にこにこしている。
「好きって、電車に乗ったの? タクシー? そんな」
銀座の店まで一人で行ったなんて。
「財布に現金が入ってたから、それでね」
財布は海斗のデスクの引き出しにしまってあった。カード類は使えなくしたけど、中身には手を付けていなかった。
「結婚記念日。今日だよ」
「え?」
すっかり忘れていた。
「やっぱりなあ、理生はすぐに忘れる」
結婚記念日。
それでカイトは理生のためにケーキを買いに出かけた?
「ばかじゃないの」
ぶつかるようにして抱きついていた。
「ばかじゃないの」
小さな棘が溶ける。
泣いていた。海斗が死んでしまってから、まだ泣いていなかった。
抱きしめるカイトの体は温かい。
設定体温は36.4度。海斗のぬくもり。
しっかりと抱きしめる。
「おかえり、海斗」
「ただいま、理生」
了
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