地元の都市伝説を追う② 鈴鹿明神社
おはこんばんちは、明日晴レです。
今回は、「伊勢から神輿が漂流してきてできた神社」についてです。
初めに断っておきますが、ここに書いてあることは全て私個人の考えです。
現在の信仰・思想等を否定する気は全くないので、あくまでエンタメとして楽しめる方のみお付き合いください。
地元の都市伝説を追う①でもお伝えした通り、縄文時代から座間には人々が生活していた訳ですが、縄文時代の中期から後期にかけて(約6000年前)、地球は温暖で海面が今より高くなる「縄文海進」の影響で、神奈川県も海岸線が今より内陸まで到達していました。
座間市は県央の厚木市より少し北側にあり、すぐ近くには県を南北に流れる相模川があります。昔の相模川は現在よりも水流が多く「大川」と呼ばれ、今より東側を流れていたので、当時は座間から船で海に出る事もあったのではと推測。
ここで本題の鈴鹿明神社についてなのですが、まず同社の御由緒として『座間古説』に以下のような伝説があります。
気になる箇所だらけ!!(笑)ですが。
まず、海が七里(約27km)引いて陸地となったとあるので、縄文海進後に海岸線が南に移動した時期としては縄文時代末期から弥生初期(西暦200年前後)なので、鈴鹿の翁が海に宝剣と宝玉を投げたのはその頃の話だと推測します。
更に「天照大明神の御妃」と、普通に「天照が男神」としている事も大変興味深い。『座間古説』が江戸時代中期(1764〜1772年)に書かれたとされているので、少なくとも江戸時代はそういう事になっていたと見える。
都市伝説界隈では、天照の妻は「瀬織津姫」であるとされていますが、所謂
「伊勢の斎王の立場にあった人」という解釈で良いかと思います。
そして、「鈴鹿大明神」を検索すると出てくるのは「鈴鹿御前の別名である」という事。鈴鹿御前は、伊勢の鈴鹿山に住んでいたとされる天女です。
座間市のホームページでは、
と、伊勢の鈴鹿山・鈴鹿峠の由来に言及していますが、「すず」=篠竹ならば
「鈴鹿」の翁は「篠竹」の翁であって、あの有名な「竹取の翁」なのでは?だとすると、鈴鹿の翁の娘=かぐや姫=天女=裏の鈴鹿大明神ではないかと考えると浪漫ある!ってことで、この説を軸に考えます。
TOLAND VLOGさんのこの回を見ていただくと、
饒速日の娘である「御歳神」という姫が、父方の祖母である神大市比売から続く月読系の斎王としての血筋を守る為に、イワレビコ(神武天皇の皇子時代の名前)から逃れて行方不明となり、この時に一緒に逃げたのが大和の元々の支配者であった長髄彦でそれが「竹取の翁」だったのではないか、とあります。
座間古説には「大山祇神の子孫」が鈴鹿の翁だと書かれており、先ず大山祇神は、神大市比売、足名椎・手名椎(あしなづち・てなづち)、磐長姫、木花咲耶姫、木花知流姫の親神です。
記紀には大山祇神自身の記述もさることながら、その妻となる神の記載も全然ない
『古事記』では、大山祇神の妻は鹿屋野比売であり、4対8柱の神を生んでいますが、名前が 狭土、狭霧、闇戸、惑子 など印象がネガティヴなものばかりで、彼女も歴史から消されまくる「月読系の斎王」かもと推測。
更に、娘の木花知流姫は『粟鹿大明神元記』において、素戔嗚尊が大山津見の孫櫛名田比売命を娶って産んだ神八島士奴美神との間に、布波能母遅久奴須奴神を産んでいます。そして、この系譜は大国主に繋がっていきます。
素戔嗚尊は、大山祇神の娘・神大市比売と孫・櫛名田比売と結婚し、息子を大山祇神の娘・木花知流姫と結婚させ、更に娘のスセリヒメを大山祇神の子孫・大国主と結婚させている
ことになり、両者の系譜に強い繋がりが見てとれます。
現在の鈴鹿明神社の境内には、本殿(伊邪那岐命・素戔嗚尊)の他、厳島神社(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命=宗像三女神)と稲荷神社(宇迦之御魂神)が、祀られています。
鈴鹿大明神が大山祇神の子孫なので、大山祇神の父(伊弉諾尊)、神大市比売の夫(素戔嗚尊)、孫娘(神大市比売の子=宇迦之御魂神)を一緒に合祀したのだと理解できます。
更に、宗像三女神=スセリビメであるとするならば大国主の妻ですし、更に天照と素戔嗚間に生まれたスセリビメ=伊勢の斎王なので、隠されてきた御歳神(かぐや姫)の祖母として合祀されているのも頷けます。素戔嗚系図
かぐや姫と座間古説が更に結びつくのは、鈴鹿が座間に漂着した時の天皇である「文武天皇」が、かぐや姫の帝のモデルだという事。
座間古説の真相は、御歳神が神武天皇の求婚を断って逃げたけど、天照(伊勢大和)系の血を引いている斎王でもある身分だった。「大山祇神の子孫」として東のまつろわぬ民=蝦夷=縄文人を頼って座間に辿り着き、その時乗ってきた船を森に隠して、鈴鹿大明神として君臨し、死後古墳を作って埋葬した。
だから、座間の旧名が 伊勢から蝦夷に参った=伊参=夷参=イサマ なのかも知れない。
また、座間古説にある相模国勝坂の有鹿神とは、座間市の更に北側にある相模原市の勝坂という地域に縄文時代から住んでいた人々で、(有鹿の勝坂遺跡についても調べると面白い)当時の東日本は「まつろわぬ民」=蝦夷だったので、縄文から続く土着の信仰とかぐや姫を、「天武天皇を助けた鈴鹿の翁」を表に置いて、判る人にはわかるように「夷→伊」にして隠したのではないだろうか。
古代日本に言及している、 深草秦氏の末裔土御門兼嗣氏によると、神大市比売は秦氏の女性で、素戔嗚尊と婚姻関係にあったが、その後、天照族と素戔嗚族に子が出てきたため離縁して移り住んだと伝わっているらしい。
その天照との間にできた姫がスセリビメで、神大市比売とスセリビメの血を引くかぐや姫は、天照、素戔嗚、月読の3氏族の血を引くスーパー巫女だったと。
そのかぐや姫を守った長髄彦は、「猿田彦」を信仰していたと富家に伝わっているそう。
猿田彦大神を祀る神社の総本社は、
三重県鈴鹿市 「椿大神社」
だと言われています。
そして、鈴鹿明神社にある古い狛犬がこれ↓
狛犬が花柄の鞠を踏んでいることは他所でも多くあると思いますが、これは花の大きさもバラバラで花弁などの彫刻がかなりリアルに施されています。
更にさらに、鈴鹿明神社の本殿東側の目立たないところにある像がこれ↓
長くなってきたので、 大山祇と蛇神 との関係については次に致します。
お疲れ様でした、また次回お目に掛かれれば幸いです。