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虚像と実像

最近納得した言葉。

相手の言葉を勝手に変換しない、だ。


解釈とも言う。でも人間だから考えて想像して解釈するのは当然の営みだとも思う。

わたしは昔からなのか、いつからなのか、相手の言葉を精緻に理解することを大事にしている。なぜこうなったのか、どうしてその言葉を言ったのか。その人との関係性が浅いほど深掘りをする。その後の関係性構築に活かすために。


そのときの気持ちは感情は
なぜそうしたのか
こうでなかった理由は何なのか
どうしようとしているのか

想像しながら問うことで、相手の実像とわたしの相手に対する虚像のギャップを埋めていく。想像で相手を形作ることは愚かなことだと知っているからだ。勝手に理解した気になって、鼻高々にお前はこんな人間なんだ、なんて宣言するほど滑稽なものはない。
人間関係がうまくいくとも思わない。

相手に嘘を付かれてしまったらこれは成り立たないのだろう。けれど言っていることややっていることがちぐはぐになるから、これは本心ではない、とわかるときもある。

嘘を付かれるのは、所詮相手とわたしがそこまでの関係を築けなかったということなのだ。わたしは本心を言うに値しないと評価された結果。


それでもわたしは相手の深掘りをやめたくない。関係が深くなってもわたしが相手に心を許してしまっても、深掘りできるようになりたい。今のわたしに足りないもの。

料理が好きだからと言って得意なわけじゃない。あくまで好きなんだ。

あの映画を観たいからといって、好きとは限らないんだ。あくまでこの時点の事実は映画を観たいだけ。

趣味が読書だと言われても、本に詳しいとは限らない。本を読むという事実が明らかになっただけ。たくさん読むとも限らない。

だから問わねばならない。
相手を知るために、理解するために。

勝手に言葉を変換し、解釈するから虚像になってしまうんだ。
改めての自分自身への戒め。

相手への思い遣りや想像も大事にしながら虚像ではなく実像に向き合いたい。




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