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vol.2 運命がたどり寄せた、女川町との出会い

前編をご覧になっていない方はこちらから。

女川町のタイムリーなニーズに提案が合致

2011年10月14日、僕は震災後初めて女川町に入りました。まずは役場に出向いてお話をすると「商工会に行ってみるといいよ」と、商工会の場所を教えてもらえました。

ただ、いくつかの地域で散々ネガティブな言動を受けてきたこともあり、「また冷たい態度を取られたらどうしよう」と行くのを躊躇していたら、日が暮れて夜になってしまって。こんな時間だから商工会に人がいなかったら諦めがつく、そう思って向かうと、商工会には副参事の青山貴博さんがいました。

覚悟を決めてトレーラーハウスの話をすると、

「ちょうど1時間前に、トレーラーハウスを使って宿ができないかという話をしていたんだよ」

と、どこよりも良い反応を得られたんです。

聞くと、町の約8割を津波で失われた女川町は、建設制限の関係から建物を建てられないとのこと。そこで企画書を見せると、「まさに自分たちが話していた内容だし、具体的な企画でいいね。来週の会議に参加してくれないか」と言われ、僕は女川町の宿泊施設に関する会議に参加することになりました。

翌週、会議に参加すると女川町旅館組合の組合長から「被災地の役に立つ一つのアイデアとして、トレーラーハウスの宿はいいね」と言われたんです。当時宮城県議会議員だった須田町長や鈴木観光協会長等、町のみなさんも同じことを考えていたこともあって話が進み、僕は広域支援の一地域として、女川町にも通い始めることになりました。

野心を持て。“よそ者”として初の復興連絡協議会メンバーに

女川町に通うようになって知ったのは、女川町では震災から1週間後に、産業団体や町民が100年先の子どもたちに残せる未来の町を作ろうと、行政や議会と連携した「女川町復興連絡協議会(以下、FKR)」を発足していたことです。

しかも、女川町の未来の町づくりは20〜40代に任せるという意思決定をして、FKRによる「復興まちづくり」は本当に若手が中心に動いていました。さらに、当時30代で宮城県議会議員をされていた須田善明さん(現町長)が震災時の町長から想いを引き継ごうとされていました。

僕はいろんな被災地をまわりましたが、民間が主体的に復興提言書(民間による復興計画)を作り、国や県に全てを頼るのではなく、自分たちで自立して行動を起こそうとしている被災地は見たことがありませんでした。

FRK復興計画書

(FRKが作成した復興計画書の一部)

不平不満を言う前に、自分たちで考えて動く。そんな女川町の戦略に感銘を受けていたある日、FKR戦略室長の黄川田喜藏さんと女川町商工会の仮設事務所で話す機会を得られました。

黄川田さんに何をしているのかと聞くと、手渡されたのはFRKの復興計画書の素案。見ると、その中身は素晴らしいのですが、全てワードで作られた資料だったため少し見づらい物でした。

僕はリクルート時代に資料作りを鍛えられていたので、見やすいPowerPointの資料に作り替え、黄川田さんに渡すことに。するとそれを気に入ってくれて、他の資料も次々と任されるようになったんです。

一部の方から「パワポマン」と呼ばれるようになった頃(笑)
黄川田さんから「FKRのメンバーとして一緒にやらないか」という話をもらいました。


「いろんな被災地で薄く広く支援活動をするのではなく、どうせやるなら女川町に絞って、深くまで入り込まないとできないような、復興まちづくりを一緒にやらないか」

と。

小松さん黄川田さん写真

(きぼうのかね商店街/黄川田喜藏さん(真ん中)女川魚市場買受人協同組合の石森洋悦理事長(左))
出典:日本財団ブログ・マガジン

FKRのメンバーに“よそ者”は一人もいないので、本当に大丈夫なのか不安はありました。
でも、「20代後半の若者が世のため、女川のために復興支援をしなくていい。野心を持って自分のためにやりなさい。それが結果的に世の中のためになるのだから」と言われ、心を撃ち抜かれました。

被災地で「自分のために野心を持ってやりなさい」と言う町なんて、きっと女川以外になかったと思います。黄川田さんから、「女川で実績を作って、5年後10年後、日本や世界を変える人になってほしい」と言われ、2011年12月、僕は唯一のよそ者としてFKRの一員になりました。

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(FRK会議の様子。一番奥が小松)

やるからには本気でぶつかりたいから、それまで並行して関わっていた他の地域にはお詫びをして、女川町に入り込むことを決めました(一部、お詫びができていない地域もあり、それは今も心残りです)。

ちなみに、僕のFRK入りを黄川田さんに推薦してくれたのは青山さんだったと、だいぶ後に知りました。青山さんの推薦がなければ僕は女川にいなかったと思います。

青山さんから「女川にすごく必要だと思ったから推薦したんだよ」と言われたときは、本当に嬉しくて「絶対にお役に立ちたい」と思ったことを鮮明に覚えています。

潮目が変わったのは1年後。「エル・ファロ」の竣工

しかし、そこから順調にことが進んだわけではありません。

年が明けた2012年1月、女川町の人が約70人集まった会合で、僕がFKRのメンバーになったことが紹介されたときのこと。会の最後に皆さんの前で挨拶をしたのですが、名刺交換ができたのは、ごく少数だったんです。今でもずっと私を支えてくださっている、FRKのまちづくり創造員会の阿部喜英さんや商業関連委員会の岡明彦さんとこの日、始めてお会いしたこともすごく良く覚えています。

それもそのはず、FKRのメンバーになったからといって、僕は何の実績もない、よくわからない“よそ者”であることに変わりありません。どこかの組織に所属しているわけでもなく個人で活動していたので、「何か裏があるのではないか」「怪しいのではないか」と思われて当然でした。僕が逆の立場であれば、間違いなく同じことを思います。

商工会長で、復興連絡協議会長の高橋正典さんと青山さんの温かいサポートのおかげで仕事をいただけて、町の活動領域も広がり、少しずつ収入も得られるようになりましたが、町の方からは、警戒された存在でした。

どうにか理解してもらおうと、さまざまな会議や集まりに参加しても、状況は変わらない。だから、目に見える成果を見せながら、自分を知ってもらい、少しつずつでも受け入れてもらおうと考えました。

それから約1年間、僕は黄川田さんと取り組んでいる企画書や資料の作成、起業支援による新規事業立上げをがむしゃらに行いました。すると、一人、また一人と僕を信じてくれる人が増えるようになったのです。

そして、大きく潮目が大きく変わったのは、トレーラーハウスで作った宿泊施設「エルファロ」が竣工した2012年12月27日でした。

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(鈴木佑介/「トレーラーハウス宿泊村 EL FARO オープニングレセプション」より)

もちろん、エルファロの立ち上げは女川町、FKR、商工会等が中心となって行いましたが、FRKの一員として、裏方で一生懸命作業をしていた僕の存在を町の人が知ってくれたとき、僕に対する心理的な距離が一瞬で縮まったと思いました。

エルファロのオープン式典のとき、終日駐車場で交通案内をしていたのですが、式典から帰る当時女川町観光協会長をされていた鈴木敬幸さんはじめ、様々な方に「君はこれからも女川にいるんだよね!」「もう君は裏方でもよそ者でもない。女川の人間だよ」と言われて、涙で滲んだ景色を今でも忘れられません。

それから意外かもしれませんが、今、僕のことを「弟」と言って支えてくださっている高政の高橋正樹さんとは、この式典が初対面で「あの高橋正樹さんだ!」と緊張したのも覚えています。

以降、町の人たちから「こんなことをやりたい」「これを手伝ってもらえないか」という相談が大量に舞い込むようになりました。

そのうち、僕一人では対応できなくなり、2013年4月に、特定非営利活動法人アスヘノキボウを立ち上げました。
アスヘノキボウ初期

(NPO法人アスヘノキボウ初期メンバー)

実は、町の人との距離がずっと縮まらない状況の中、黄川田さんから「小松のことを、なにか裏を持っていると思う人がまだまだいる」と言われ、一度だけ「僕は何の邪念もなく想いを持って女川町のためにやっているだけなのに、なんで疑われないといけないのか!」と黄川田さんに言い放ち、仕事を投げ出して仙台に帰ったことがありました。

だけど、僕が裏方をやり続けることで信じてくれている人は少なからずいたし、少しずつ増えていました。だから、翌日女川に戻り「信じてくれている人がいるのだから、自分にできることを一つずつやります」と黄川田さんに謝罪。

「だから言っただろ、人のためではなく自分のためにやるんだよ」と黄川田さんに諭され、初心に返ったという出来事もありました。

一個人のよそ者として女川に入り、ゼロから地域との関係を積み上げながら復興まちづくりに関わると、孤独を感じ、いろいろな感情でぐちゃぐちゃになることもありました。
でも、この道を通ったからこそ、僕は今も女川で仕事ができているのだと思っています。

そんな自分をお見通しだった、須田町長、黄川田さん、会長(高橋正典さん)、敬幸さん、喜英さん、正樹さん、青山さん、明彦さんをはじめ、女川の皆さんに本当に支えて頂いて、初期のしんどいことも乗り越えていきました。

いくつか、僕を支えてくれている皆さんからの当時のメッセージをご紹介します。

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(これから女川で頑張ろうと強く思った喜英さんからの大切なメール)

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(迷ったり悩んだりした時に立ち返る正樹さんからの大切なメッセージ)

僕の女川町での活動は、こうした町内での取り組みに限ったことではありません。注力していたのは主に東京から視察に来る大企業との交渉と実働。
そのお話は、Vol3でお伝えします。

Vol.3へ続く


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