ひろげる、つなぐ

今日になってしまった。

実践と思考とか言っているけど、行動に移すのって本当に進まない。タイミングとかもあるのだろうけれど、勇気がなかなかでないよね。しかも、やってみても、最初から実感を得られることや目的が果たせることはほとんどない。続けることが大事なんだと思う。続けてみたら思いがけぬ方向に向かっていくこともある。

今日の気づきは、私は人の思考や世界を「ひろげ、つなげる」ことをしたいのだということ。自分の世界が広がれば、自分も知れる、他人も知れる。知れれば、怖さは減るし、共感できることが増えるかもしれないから優しくなれる。優しくなれたら、差別も、貧困も、競争も少しづつなくなっていくのではないか。と考えた。今いる自分の世界に籠もるのではなく、ほんの少しでいいから風穴があったらいい。皆に風穴をぶち開けたい。自分にも開けてほしい。私がぶち込むのは、どんなことにも面白さはあること、そして世界は全部繋がっているということ。特に学問や音楽についてなら、私はそれらを伝えられると思う。

でもこれって、ただ自分の思うおもしろいを押し付けているだけなのでは?私が風穴を開けたい!と思う人間は、今の自分の社会的立場に諦めを感じながら、その中でもより良い場所を探し、「勉強のできる」人をなんとなく上と思って生きているような人である。そんな人間そもそもいるのか?私自身がそうなんじゃないか、この言い方している時点で。とかも思う。

皆が、自分の存在価値を唯一無二のものだと普通に思える世界がいいなと思ったのだけど。

普通のバイト先で、出身校の名前を出すと、扱いが変わることがある。学校名の前に、同じ得意不得意のある人間なのに。このバイトに学校は関係するのだろうか?確かに現代の日本において、だいたい高校受験時に勉強ができるかどうかで子供は輪切りにされる。そして、「なるべく上の高校を目指すべき」というノリがある。上のほうが良いというものである。「そんなことない」と言えて、自分でポジティブに納得した上で行く場所を選べる高校生がどれだけいるだろうか。すごく少ないだろう。この上の方に行けなかった、自分は行けないものだから自分自身そんなもんなんだ、という感じがいろんなところで滲み出ているような気がする。すごく嫌だ。みんなどこかしら素敵な人で、どこかしらダメな人なのに、なんで「上」にいけたらいけるほど良い、いけなかった自分はそれほどでもないとかいうことを、社会は思わせているのだろう。その人間が良いとか悪いとか、すごいとか普通とか、それって相対的なものだから、「勉強」という括りを社会で生きる人は早く抜け出せばいいのにと思う。なんでそればっか重視する教育なんだろう。受験制度なんだろう。

もっとその人自身を見つめられる人になりたい。

さて、私は世界を広げ、人間と世界のつながりを増やしていきたいな。

アマゾンさんにしかイメージが乗ってなかった悔しい。今日読んだ本。勉強している人が道を踏み外さないためには、実践を行っている人に見ていてもらう必要があるのではないかと思いました。

ほいでは。

読んでくださった方へ、何を思って読んでいたのか、読んでくだすったのか、コメントくをだされば、家の前にやまびこをしに走るくらい、喜びます。