当たり前

今日TwitterとPixivにあがっていた漫画を読んだ。同性愛のお話だった。その中で「好き」って何かという話題が出て来た時、それに対する主人公の意見に少し救われたのである。

主人公は「世間で目にする「好き」って結局は人のものだから自分に必ず当てはまるかと言われたらそうじゃないと思う」と言った。そう、わかってはいたのだ。世の中の当たり前とか、大多数が共有しているであろうイメージや雰囲気は、結局他人が作ったものだから必ずしも自分にすべてが当てはまるわけではないということはわかっていた。わかっていたが、「好き」という感情にその考え方を向けられてなかったのである。たぶん。そして、就活とか、大学を卒業したらこう在るべきとか、面白い人間ってこう!みたいなイメージにも、私は捕らわれているのである。捕らわれるのが悔しいと思っても、自分もそのイメージを作り出す一般大衆の一部なのであるから、ある程度捕らわれるのもしょうがない。しかし、それに縛られて自分を苦しめ、傷つけるのは違う。

さらに、この漫画のコメント欄で、ジェンダーやセクシュアリティにもヒエラルキーやその中での嫌悪だったりがあるという記述を見つけた。本当にあるのかは知らない。でも、自分の知らないものやそれを持つ人に対する恐怖みたいなものは、安定を求める人間にとって昔からあった感情に思う。私は、自分が知識がなくともみんなの存在を受け入れられる人間であったら…と思う時がある。でも、それを思っている時点でそうでない自分と向き合っているわけで、そうでない自分がいるからこそ知ろうとするけれども、知識があったからと言って、いざみんなを傷つけないような発言や対応ができているかは皆目見当がつかないのだ。しかも、ジェンダーやセクシュアリティに悩んでいる人の中でもヒエラルキーや他への嫌悪(どういう嫌悪かはわからない。自分と違うものへかもしれないし、他人の意見に筋が通ってないと感じるためかもしれない)を感じているのかもしれないと思ったら、自分はなるたけ優しく生きることができるように、自分らしく考えて生きるしかないなと思った。「好き」は人それぞれ。ごりごりの青春漫画みたいな恋愛をする人もいれば、穏やかな人間との過ごしを恋愛と呼ぶ人もいるかもしれないし、恋愛をせずとも「好き」な人と生きていく人もいる。みんなの共通認識で言語は成り立つけれども、個別の事象にすべて当てはまる訳ではない。ある程度、他人に話が伝わらないのはしょうがないが、自分がわかっていないなと思った時に拒絶することだけはしたくない。できることなら自分の中に落とし込んで知りたい。

自分はいまの状況の当事者である。

うん、中途半端だけれども、今日はここまで。

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Asuka Onodera
読んでくださった方へ、何を思って読んでいたのか、読んでくだすったのか、コメントくをだされば、家の前にやまびこをしに走るくらい、喜びます。